夫が風呂に入らなくなったら、あなたならどうする? 『水たまりで息をする』試し読み

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「風呂には入らない」。ある夜、夫がそう告げた。問うと、水が臭くて体につくと痒くなるという。何日経っても風呂に入らない彼は、ペットボトルの水で体を濯ぐことも拒み、やがて雨が降るたび外に出て雨に打たれに行くようになり……。

誰しもが感じ得る、今を生きる息苦しさを掬い取った意欲作『水たまりで息をする』(高瀬隼子・著)の冒頭部分を公開します。

 ***

1 風呂

 夫が風呂に入っていない。衣津実(いつみ)はバスタオルを見て、そのことに気付いた。昨日も一昨日もその前の日も、これがかかってなかったっけ? 芝生みたいな色のタオル。
 風呂場のドアの外側に、彼女のと夫のと、一枚ずつタオルをかけている。夫のタオルに顔を近付ける。鼻先がやわらかくぶつかる。くさくはない。洗剤と家のにおいがする。手を洗って、芝生色のタオルで拭き、そのまま引き抜いて洗濯かごに放る。洗面台の鏡に向き直り、目じりのしわにファンデーションが固まっているのを、指で伸ばして、明かりを消した。
「ねえ、お風呂入った?」
 ただいまの代わりにそう言いながら、リビングのドアを開ける。
 あたたまった空気の中に、カップ麺のにおいが漂っていた。台所に視線をやると、シンクに空容器が置いてある。夫はいつものTシャツと短パン姿でソファに座り、膝に載せたパソコンで動画を見ていた。お笑い番組らしく、たくさんの人間の笑い声が部屋に響いている。
「おかえり。遅かったね」
 夫がパソコンを膝からよけて立ち上がった。足元のフローリングにビールのロング缶と柿の種の袋が置いてある。「風呂ねえ」と言いながら彼女の横を通り、カップ麺の容器を掴むと、蓋付きのゴミ箱に捨てた。
「風呂には、入らないことにした」
「入らないことにした?」
 ことばをなぞって聞き返す。頷く夫の顔を見る。今年三十五になる一つ年下の夫は、夜はいつも体調が悪そうに見える。一日働いて帰って来ると、頭か肩か腰が痛いか、どこも痛くない日は、ただ体がだるいのだという。今日もやはり疲れているようだった。顔の上半分は笑っているが、口元が追い付いていない。あがりきらない口角が、かすかに震えている。
 口の周りに、ひげが点々と生えている。Tシャツと短パンからそれぞれ伸びている腕と足にも毛が生えている。二月だというのに薄着で、骨の形が見て分かるほど細い。腕も足も首も細く、お腹周りだけすこしたるみ、尻や太ももはまた細い。スーツ姿が一番似合う短い黒髪が、風呂に入っていないと言われてみると、いつもよりもべったりして見えなくもないけれど、変わらないといえば変わらない。音を立てずに鼻で息を吸ってみる。においも、別にしない。
「とりあえず、着替えてくるね」
 そう言ってリビングを出る。着替えを置いている寝室で、ブラウスとスカートを脱いで、厚手のトレーナーと裏起毛のスウェットパンツに着替えながら、衣津実は、夫が濡れて帰って来た夜のことを思い出していた。ひと月ほど前のことだ。

高瀬隼子
1988年愛媛県生まれ。2019年『犬のかたちをしているもの』で第43回すばる文学賞を受賞してデビュー。22年『おいしいごはんが食べられますように』で第167回芥川賞、24年『いい子のあくび』で第74回芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。

集英社
2024年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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