いつもワックスで横に流している前髪が、ぴたりと額に張り付いていた。前髪の先を辿ると、白いシャツも腹のあたりまで縦にまっすぐ、ぐっしょり濡れていた。コートまで濡れてしまうのを避けたのか、前を大きく開いていたので、シャツの胸元に肌着代わりに着ているTシャツのグレーがはっきりと透けて見えていた。一目見て、雨に打たれたわけではないと分かった。
「えっ、どうしたのそれ」
その時、衣津実は玄関にいた。出迎えたわけではなくて、翌朝出すゴミをまとめて玄関に運んでいたところに、たまたま夫が帰って来たのだった。
夫は玄関のドアノブを片手で握ったままの体勢で、驚いた顔を彼女に向け、一拍遅れて「ただいま」と言った。その様子が怯えているように見えたので、もしかしたら夫は、前髪が濡れていても不自然じゃないよう顔を洗って、さっさと部屋着に着替えて、何もなかった顔でリビングのドアを開けるつもりだったのかもしれない、と思った。
「ちょっとした悪ふざけをされて」
夫は洗面台の前でシャツを脱いだ。手を洗い、ついでのように前髪も拭く。
「最近の若い子ってああなのかな。酔っぱらって、困るよね」
すこし遅めの新年会をしようということになって、会社の人間数人で飲みに行ったという。普段よく飲みに行く人たちだけでなく、年代の離れた人たちも一緒になった。そこで、入社してまだ数年目の後輩に、水をかけられたらしい。
それって、と彼女は言った。自分の声が強張っているのが分かった。
「なんで? どういう……分かんないな。上司に水をかけるなんてことある? 研志、なにかしたの?」
「いや上司っていうかただの先輩だけどね、おれは。まあ先輩でも水はかけないか」
夫は律儀に関係を訂正してから、「先輩でも、後輩でも、同僚でも、水はかけない。かけちゃいけない」と真面目な顔で言った。
「水は、ふざけてかけちゃいけない」
それから、洗濯かごに入れたシャツを取り上げて、濡れた部分を鼻先に近付け、「カルキくさい」とつぶやいた。夫が手を離すと、シャツはまっすぐ下へ落ち、洗濯かごに収まった。
あの夜、夫は確かに落ち込んでいる様子だったけれど、次の日からはいつもどおりだった。普通に出勤して、疲れて帰宅して、パソコンで動画を見て、日付が変わる頃に眠った。ほどほどに仕事の愚痴をこぼし、ビールを飲んだ。生きているだけで、嫌なことはたくさんあるけれど、どうにかこうにか、なんとかしていくしかないから、あの日のことは、それ以来話題にも出なかった。ほんのひと月前のことだから、忘れたというわけではないにしろ、記憶から取り出して、改めて眺めるということもなかった。それが、今になって鮮やかに頭の中で再生される。
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