彼女は暖房のきいたリビングに戻り、テレビをつけた。何を見るわけでもなくチャンネルを回し、見たことのある芸人が下積み時代の苦労話を披露している番組を見つけ、これにしようかとリモコンをテーブルに置いた時、夫がリビングのドアを開けて入ってきた。
「え、どうしたの。もう出たの」
夫は裸のままだった。肩から黒いバスタオルをかけていた。近寄って、タオル越しに夫の肩に手を当てる。タオルはほとんど濡れていなかったし、夫の体も、髪も、見える限りはどこも濡れていなかった。
「無理だった」
と夫は言った。目の下がしわしわだった。
「だめだった。シャワー、浴びれなかった。なんだかもう、嫌で」
彼女は夫の肩から背中へ手を当ててなでた。上から下へ繰り返し手を動かし、腰の手前で途切れるバスタオルのぎりぎりのところで、一番上に手を戻して、また下へとなでた。
水がくさいんだよ。それで、それが体に付くと、かゆい感じがする。実際にかゆいわけじゃなくて、なんだろう、例えば古本屋の倉庫の奥の段ボールに十何年も前から眠っている埃まみれの茶色い古書があったとして、それを触るとなんとなく手がかゆくなる気がする、そういう感覚のかゆさというか。これまでどうして平気でこんなものに触れていたんだか分からない。こんなくさいものを飲んだり、体にかけたりしていたなんて、思い出すと、それも嫌になる。ごめん。
裸のまま話をした最後に、夫はそう謝って、彼女が差し出した新しい下着とTシャツと短パンを順番に身に着けた。そうした方がいいだろうと思い、Tシャツは色の濃いグレーのものにした。
夫を労り、夫の話に耳を傾けながら、彼女はひとりぼっちで話をしている。もしかしてほんとうに、ずっと風呂に入らないつもりなの。驚いている。このおだやかな人と結婚して、三十代も半ばを過ぎて、自分の人生には、この先想定していない出来事なんてもう何も起こらない気がしていた。子どもを産むのは止めたし、夫婦二人でそれなりに楽しく、年老いていくのだろうと思っていた。年老いて、と想像の中では時間の歩みが速く、飛び石のようだった。三十五歳の今、五十歳くらい、七十歳くらい、そして死。
夫は冷蔵庫から新しい缶ビールを取り出して飲み始めた。彼女はもうビールは飲みたくなかったけれど、喉が渇いていて、けれど今夫の目の前で水道水を飲むのははばかられ、仕方なく同じ缶ビールを取り出して飲んだ。洗面台の床に残されたペットボトルの中には、夫が顔を拭くのに使ったミネラルウォーターがまだ余っているはずだけれど、それこそ飲めるわけがなかった。
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