乙一の真骨頂! 感涙必至! 線香花火のように儚く、切なさ溢れる『一ノ瀬ユウナが浮いている』試し読み

試し読み

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 ユウナは時々、空想の世界で遊んでいる。ぼんやりと雲を見上げたまま、何十分も心が地上に戻ってこないことがある。
 小学校から帰る途中、彼女が空を見ながらふらふらと赤信号の横断歩道を渡ろうとするものだから、赤いランドセルをつかんで引っ張り戻してやった。俺たちが住んでいるのは地方の田舎だから、交通量もすくないため、そのまま道路に出てしまっても轢かれなかったかもしれないが。
「そのうち事故にあっても知らないぞ」
「私が道を外れて水路に落ちたら、大地君、助けてくれる?」
 通学路の農道に沿って深めの水路がある。
「俺がその場にいたら助けるけどさ、いつも俺がいるとは限らないだろ」
 俺はいつからかユウナに対して特別な感情を抱くようになっていた。それはいわゆる恋愛感情的なものだったが、どのように発生し、胸の内に宿ったのか、自分でもわからない。
 自覚したのは六年生の時だ。その頃、彼女は漫画の模写にはまっており、授業中にもノートに四コマギャグ漫画を描いては教師に怒られていた。
 休憩時間、みんなから離れた場所で、彼女は一人、教室の窓辺に佇んでいた。近づいてみると、彼女はなぜか鼻の下に消しゴムをあてて、真剣な表情をしていた。
「おまえ、何してるんだ?」
 声をかけると、消しゴムの位置を指で保持したまま俺を振り返る。
「この消しゴムの匂い、好き」
「そうか、良かったな」
 休憩時間が終わるまで、彼女はずっと窓辺で消しゴムの匂いを嗅いでいた。真剣な表情で。
 変な奴だ。そう思うと同時に気づかされる。彼女をなぜか目で追いかけてしまうことに。
 当時、彼女が熱中していた漫画は『週刊少年ジャンプ』で連載中の『HUNTER×HUNTER』だ。主人公の少年が世界を冒険するという内容だが、緻密に練り上げられた物語展開と、壮絶なバトルシーンに俺たちは魅了されていた。登場人物たちは、念能力と呼ばれる不思議な力を駆使して戦闘を行うのだが、その息詰まる駆け引きがたまらない。その年、『HUNTER×HUNTER』は長期の休載に入っていたが、読者の熱量はすこしも衰えなかった。
 ある日、ユウナが至極真面目な顔をして俺に打ち明けた。
「私ね、水見式(みずみしき)をしようと思ってるんだけど、大地君にも一緒につきあってほしい」
 水見式というのは『HUNTER×HUNTER』に登場する用語である。念能力には六つの系統があり、「強化系」「放出系」「変化系」「操作系」「具現化系」「特質系」に分けられる。登場人物たちは水見式と呼ばれる方法を用いて、自分がどの系統の念能力を持っているのかを判定するのだ。
 ……あくまでも、漫画の中の話である。実際に念能力を使えるという人間を見たことはない。はっきり言って、実際に水見式をしようなんて思いつくのは馬鹿げている。フィクションと現実を混同している。
 しかし、俺はユウナの誘いに乗った。
「いいぜ。自分の中に眠っている念能力がどの系統なのか、俺も気になっていたところだしな」

乙一
1978年、福岡県生まれ。96年『夏と花火と私の死体』で第6回集英社ジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞し、デビュー。2003年『GOTH リストカット事件』で第3回本格ミステリ大賞受賞。著書に『ZOO』『きみにしか聞こえない』「Arknoah」シリーズなど。複数の別名義で小説を執筆、安達寛高名義では映像作品の脚本、監督作品を発表している。

集英社
2024年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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