別れが連れてきてくれた、一匹の小さな猫との奇跡の出会い。優しい幸せに満ちた大人気猫エッセイ! 村山由佳『命とられるわけじゃない』試し読み

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大好きな父、最愛の猫〈もみじ〉、そして確執のあった母。三年続けて見送った平成最後の春、母の葬儀を前に現れたのは、一匹の小さな猫だった。見た目は全然違うのに、なぜか〈もみじ〉そっくりなその猫との出会いが、止まっていた時を再び動かし……。

「どれほどしんどく思えても、〈命とられるわけじゃない〉のだ」。猫と亡き父に教わった優しい気づきと、愛すべき猫たちに心洗われる大人気エッセイ『命とられるわけじゃない』(村山由佳・著)より、冒頭部分を公開します。

 ***

はじめに

 気がつけばかれこれ四半世紀以上、恋愛小説と呼ばれる物語を書き続けてきた。
 おかげで〈恋愛のエキスパート〉的な立ち位置で意見を求められたり、お悩み相談を受けたりすることが多々あるのだけれど、正直なところ私にはまったくその資格がない。
 だってそうだろう。もし本当にその道のエキスパートなのだとしたら、恋愛であれ結婚であれ、本来譲ってはいけないことまで相手に明け渡すという最低最悪の失敗を、あんなに何度もくり返すはずがないのだから。
 とはいえ、ありがたいことに今の私には、自分で言うのも何だけれどしっかりと地に足のついた生活がある。やっとだ。物書きとして仕事をするようになってから四半世紀以上かかってやっと、その実感を言葉にする自由を手に入れられた。
 願わくは、否応なく素顔が露わになるこうした文章の中でも、できる限り自分や人に嘘をつかずに、今わかっている〈ほんとうのこと〉と向き合っていけるといいなあ、と思う。今度こそはたぶんずっとのパートナーや、増えてゆくばかりの生きものたちとの暮らしについても、また血縁や、友人たちや、かなり苦手だけれど必要な世間とのやり取り、百のうち九十七くらいはしんどさのほうがまさる仕事、などなどについても、淡々と平常心で書きとどめていけるといいなあ、と思う。
 生きていくうちには呑み込みがたいことも起こるけれど、一つひとつ言葉に置き換えてゆくことで心に整理をつけて、やがて自分なりの妥当な落としどころを見つけられるといい。
 そんな具合に、我が身に起こることをできるだけそのまんま肯定してゆく姿勢を私に教えてくれるのは、じつのところ、「猫」だ。何の誇張でも比喩でもなく、子どもの頃から身近にいてくれた猫たちこそが、私にとっては世界のとっかかりであり、時にはすべてであったりする。
 だからまずは猫の話をしよう。
 ずっとそばにいたのに逝ってしまった最愛の猫と、その別れからきっかり一年後にめぐり合った小さな猫の話を。

村山由佳
1964年東京都生まれ。立教大学文学部卒業。会社勤務などを経て、93年『天使の卵――エンジェルス・エッグ』で第6回小説すばる新人賞を受賞。 2003年『星々の舟』で第129回直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で第22回柴田錬三郎賞、第4回中央公論文芸賞、第16回島清恋愛文学賞を受賞。21年『風よ あらしよ』で第55回吉川英治文学賞を受賞。

集英社
2024年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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