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- その扉をたたく音
- 価格:660円(税込)
ミュージシャンの夢を捨てきれず、親からの仕送りで怠惰に暮らす、29歳無職の宮路。ある日、ギターの弾き語りに訪れた老人ホームで、神がかったサックスの音色を耳にする。演奏していたのは年下の介護士・渡部だった。「神様」に出会った興奮に突き動かされ、ホームに通うようになった宮路は「ぼんくら」と呼ばれながらも、入居者たちと親しくなっていき……。
音楽と人が奏でる、確かな希望の物語『その扉をたたく音』(瀬尾まいこ・著)より、冒頭部分を公開します。
***
1
いた、天才が。いや、ここまできたらもはや神だ。どうしてこれほどの能力のあるやつが、こんなところにいるのだろう。真の神は思いもかけない場所にこそ、現れるものなのだろうか。
目の前の男がサックスで奏でる音楽。最初の音を聴いただけで、俺は体中が反応するのを感じた。そして、演奏が進むと、胸の奥のそのまた奥。自分でも触れたことのない場所に、音が浸透していく。
俺だけではない。目の前に座る、じいさんやばあさんも涙ぐんでいる。当然だ。この本物の音を聴けば、自然に心は揺らされ涙はあふれる。一切の混じりけのない正真正銘の音楽。もっと耳に刻み込もうと俺は目を閉じた。そのとたんだ。サックスだけでなく、今にも倒れそうなしわがれた声が耳に届き始めた。いったいなんだと目を開けると、目の前ではじいさんやばあさんが、音程もテンポも無視し思い思いに、「故郷(ふるさと)」を口ずさんでいる。おいおい、お前ら感動してたんじゃないのか。黙って聴きほれていればいいものを。俺がサックスの音だけに耳を澄まそうとするのをよそに、じいさんたちの歌はどんどん盛り上がっていく。
山は青き故郷
水は清き故郷
全集中力をもってしても、じいさんたちの声は耳から追い出せず、年寄りのかすれた声を聴いているうちに演奏は終わってしまった。
「宮路(みやじ)さん、今日はありがとうございました」
演奏を終えた神様は、サックスをテーブルの上に載せると、俺の前に来て深々と頭を下げた。
「いや、まあ」
「宮路さんのギターと歌を聴いて、利用者さんもみんな喜ばれてました」
「ああ、それならよかった」
嘘だ。神様がサックスを吹き始めるまで、じいさんもばあさんもしかめっ面をしているか、居眠りをしているかだった。
ギターの弾き語りをするよう、俺に与えられた時間は、四十分。演歌や唱歌。年寄りの知っている曲を歌ってやろうかとも思ったけど、音楽って迎合するものじゃない。俺の奏でたい曲に誰かが乗ってくる。それが音楽だ。だから、あえて好きな曲を歌った。ミスチルにバンプ・オブ・チキンにグリーン・デイにオアシス。ついでに俺のオリジナルソング。
ミスチルを歌っている時はパラパラ拍手も聞こえた。それが、洋楽になると半数が眠り始め、俺のオリジナル曲を披露するころには、手拍子は一切聞こえなくなった。今を生きる魂の叫びを歌った渾身の歌なのにだ。まあしかたがない。年寄りには洋楽もロックもポップスもわからないのだから。
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