いた、天才が。あの音はきっと、俺を今いる場所から引っ張り出してくれる――。音楽が彩る大人の青春小説。瀬尾まいこ『その扉をたたく音』試し読み

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ミュージシャンの夢を捨てきれず、親からの仕送りで怠惰に暮らす、29歳無職の宮路。ある日、ギターの弾き語りに訪れた老人ホームで、神がかったサックスの音色を耳にする。演奏していたのは年下の介護士・渡部だった。「神様」に出会った興奮に突き動かされ、ホームに通うようになった宮路は「ぼんくら」と呼ばれながらも、入居者たちと親しくなっていき……。

音楽と人が奏でる、確かな希望の物語『その扉をたたく音』(瀬尾まいこ・著)より、冒頭部分を公開します。

 ***

1

 いた、天才が。いや、ここまできたらもはや神だ。どうしてこれほどの能力のあるやつが、こんなところにいるのだろう。真の神は思いもかけない場所にこそ、現れるものなのだろうか。
 目の前の男がサックスで奏でる音楽。最初の音を聴いただけで、俺は体中が反応するのを感じた。そして、演奏が進むと、胸の奥のそのまた奥。自分でも触れたことのない場所に、音が浸透していく。
 俺だけではない。目の前に座る、じいさんやばあさんも涙ぐんでいる。当然だ。この本物の音を聴けば、自然に心は揺らされ涙はあふれる。一切の混じりけのない正真正銘の音楽。もっと耳に刻み込もうと俺は目を閉じた。そのとたんだ。サックスだけでなく、今にも倒れそうなしわがれた声が耳に届き始めた。いったいなんだと目を開けると、目の前ではじいさんやばあさんが、音程もテンポも無視し思い思いに、「故郷(ふるさと)」を口ずさんでいる。おいおい、お前ら感動してたんじゃないのか。黙って聴きほれていればいいものを。俺がサックスの音だけに耳を澄まそうとするのをよそに、じいさんたちの歌はどんどん盛り上がっていく。

 山は青き故郷
 水は清き故郷

 全集中力をもってしても、じいさんたちの声は耳から追い出せず、年寄りのかすれた声を聴いているうちに演奏は終わってしまった。

「宮路(みやじ)さん、今日はありがとうございました」
 演奏を終えた神様は、サックスをテーブルの上に載せると、俺の前に来て深々と頭を下げた。
「いや、まあ」
「宮路さんのギターと歌を聴いて、利用者さんもみんな喜ばれてました」
「ああ、それならよかった」
 嘘だ。神様がサックスを吹き始めるまで、じいさんもばあさんもしかめっ面をしているか、居眠りをしているかだった。
 ギターの弾き語りをするよう、俺に与えられた時間は、四十分。演歌や唱歌。年寄りの知っている曲を歌ってやろうかとも思ったけど、音楽って迎合するものじゃない。俺の奏でたい曲に誰かが乗ってくる。それが音楽だ。だから、あえて好きな曲を歌った。ミスチルにバンプ・オブ・チキンにグリーン・デイにオアシス。ついでに俺のオリジナルソング。
 ミスチルを歌っている時はパラパラ拍手も聞こえた。それが、洋楽になると半数が眠り始め、俺のオリジナル曲を披露するころには、手拍子は一切聞こえなくなった。今を生きる魂の叫びを歌った渾身の歌なのにだ。まあしかたがない。年寄りには洋楽もロックもポップスもわからないのだから。

瀬尾まいこ
1974年大阪府生まれ。2001年『卵の緒』で坊っちゃん文学賞対象を受賞し、翌年、同作を表題作とする単行本でデビュー。05年『幸福な食卓』で吉川英治文学新人賞、08年『戸村飯店 青春100連発』で坪田譲治文学賞、13年咲くやこの花賞、19年『そして、バトンは渡された』で本屋大賞を受賞。他の著書に『おしまいのデート』『春、戻る』『私たちの世代は』、エッセイ『ファミリーデイズ』など。

集英社
2024年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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