【『地面師たち』原作をたっぷり試し読み】不動産詐欺集団が狙うのは、時価100億円の物件……。Netflixでドラマ化、新時代のクライムノベル! 新庄耕『地面師たち』
試し読み
「ほんで拓海くん、書類の方は大丈夫なん?」
「ええ。何度もチェックしたので」
三日前に、後藤をふくむメンバーの最終打ち合わせが終わったあとも、拓海はハリソン山中とともに書類や証明書に誤りや漏れがないか、時間を割いて確認作業を行っていた。
「見してくれる?」
こちらが足元にある茶革のダレスバッグから書類を取り出すのを見て、後藤が速乾性の透明なマニキュアの小瓶をテーブルに置いた。
「もしまだやったら、これ使うてな」
注意して見れば、後藤の太い指の腹がかすかにつやめいている。両手の指すべてに塗られたマニキュアはすっかり乾ききり、昆虫の殻のように固まって皮膚に密着していた。
「ありがとうございます。僕はもう済ませてきたので、結構です」
拓海は丁重に答えながら、親指と他の指をさりげなくこすり合わせた。かすかな異物感がつたわってくる。
指の腹や掌に、アメリカの専門業者から取り寄せた超極薄の人工フィルムが貼ってあった。海外の諜報機関などにも採用されたという最新の特殊フィルムで、表面には架空の指紋や掌紋の凹凸がほどこされているうえ、人間と同じ皮脂成分の油膜が塗られている。専用の薬品を使わなければフィルムを剥がすことはできず、お湯や少々の力がかかったくらいではビクともしない耐久性もそなえていた。
物的証拠となりうる指紋の隠蔽は、この仕事をする上では欠かせない。それでもマニキュアを使用した詐欺事件があまりにも頻発したせいで、近頃は、書類などに指紋がひとつもないと、二課の刑事も逆に地面師の仕業を疑うという。後藤のやり方はもう古い。
「……あの」
書類を後藤にわたそうとすると、テーブルのむこうからササキの声がした。
「どうかしましたか」
拓海はササキの方に顔をもどした。
「私も、それを塗った方がよろしいでしょうか」
ササキの視線が、テーブルに置かれたマニキュアの小瓶にのびている。
「ああ、いらんいらん」
いとわしそうに後藤が顔をしかめて、羽虫を払うように手を振る。子供に言い聞かせるような声でつづけた。
「ジイさんは横に座って、あっちの質問にちょこちょこっと答えるだけで終わりやから、こんなもん、なんも心配せんでええ。全部こっちの話。ダイジョウブ。無事に片づいたら残りのお金もろうて、温泉でもゆっくり浸かり」
後藤に代わってマニキュアを塗ってあげようか……すぐに思い直した。ササキはいわばスケープゴートであり、形式上の主犯だった。罪をかぶる可能性が高い。罪の重大さと事件の性質ゆえ、指紋をごまかした程度のことで当局の追及から逃れられるはずもなく、ただの気休めにしかならない。
拓海は、さりげなくササキに眼をむけた。
後藤に恐縮しながら相槌を返しているその顔には、長い時間を経て堆積した苦労と、そこから生じる淡い諦念の色がにじみ出ている。七十代なかばを過ぎた身で、借金を返済するために昼間は都内の地下駐車場で管理業務のアルバイトにはげみ、夜は交通誘導員として路上で赤色灯を振っているのだという。かつては名古屋の高級クラブに給仕として勤め、マネージャーにまで昇りつめて華やかな時代を過ごしたこともあったらしい。店の金に手をつけてからは暗転し、いまや当時の面影をうかがい知ることは難しい。
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