【『地面師たち』原作をたっぷり試し読み】不動産詐欺集団が狙うのは、時価100億円の物件……。Netflixでドラマ化、新時代のクライムノベル! 新庄耕『地面師たち』

試し読み

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 思わぬ伏兵の出現に、後藤が脂汗をうかべながらどうにか話をそらそうとしても、かえって彼女を勢いづかせるだけだった。
「あそこの鮨は本当に美味しいんですよね。お店で使ってるグラスもぜんぶ江戸切子で素敵だし。島崎さんも、いずみ鮨さんよく利用されるんですか」
 後藤の努力もむなしく、女性社員がササキにたずねる。
「……ええ……まあ」
 戸惑いを顔にうかべたササキがささやくような声で答えた。
「あんなに美味しいお鮨がご自宅で毎週食べられるなんて本当に羨ましいです。大将のお鮨も美味しいですけど、私は二番手さんの握るお鮨も大好き。赤酢のシャリで、あのなんとも言えない空気の入り方が絶妙で。あそこって、週に一度かな、二番手さんがいらっしゃると思うんですけど、何曜日でしたっけ」
 ササキが口をつぐんだ。うつむいて適当にごまかすこともできず、なかば放心したように、立てつづけに質問してきた正面の女性社員を凝視している。
 妙な沈黙につつまれた。
 隣を見れば、後藤も発言の機を逃したらしい。ササキの方を傍観したまま固まっている。拓海はにわかに頭部が熱をおびてくるのを意識した。外に避難する手をもう一度使いたかったがどうしてか体は動いてくれない。なんとかしてこの場をとりつくろわなければならないというのに、唇はこわばり、くすぶった焦りだけが胸底にわだかまっていく。
 マイクホーム側の面々に怪訝そうな色があらわれはじめたとき、とっさに拓海は口をひらいた。
「火曜……だったかな。いや、水曜日だったっけな」
 腕組みをし、余裕のない表情のまま天井を思案げにあおぐ。皆の視線が自分の方にむけられたのに気づくと、その顔にぎこちない笑みを貼りつけ、言い訳がましくつづけた。
「あ、すいません。じつは先日、私もお鮨行ったんですよ。別にそんな高級なところじゃなくて、くるくる回るやつなんですが、イクラを頼むと皿にこぼれるぐらい山盛りにしてくれたりして、ついたくさん食べ過ぎちゃって、二十皿以上はいったかな。あれ、何曜日だったかななんて急に思い出してしまいまして。すみません……なんか」
 なんら脈絡のない、雑音同然の空言だった。それでも、ササキにむけられていた注意がうやむやになっていくのがわかる。
「ちゃうで、あれ水曜やで。そのあとお姉ちゃんとこ行って、ほら、なんやっけ、あのミキちゃんって横についてくれた大学生の女の子。授業のない水曜しか出勤してへんて言うてたもん」
 後藤が我に返ったようにすぐさま話を合わせてくる。もはやその声に焦燥の響きは感じられない。
「そうでしたっけ。酔っ払いすぎて、忘れてしまいました。たしかに、水曜でしたね」
 拓海もいつもの平静さを取り戻すと、これ以上会話の主導権をマイクホーム側ににぎられぬよう、社長に水をむけた。
「社長はふだん、どのあたりで呑まれるんですか」
 難が去ったその後も、ササキに質問がおよばぬようとりとめもない世間話で時間をかせいでいると、拓海のスマートフォンが鳴った。
 ハリソン山中からだった。無事に着金確認がとれたという。拓海は端末を握りしめたまま、後藤にむかって得意げにうなずいてみせた。
 端で傍観者を気取っていた弁護士があくびを噛み殺す。気づけば室内の緊張はほぐれ、なごやかな空気がただよっている。
 手数料の振り込みや銀行の記帳などが済み、領収書や取引完了確認書の写しを手にした司法書士が、法務局へ所有権移転の手続きにむかう。それを見届けてから、拓海は出席者全員に聞こえるように声を張った。
「以上で、すべての取引が完了いたしました。お疲れ様でした」

新庄耕(しんじょう・こう)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。2012年、第36回すばる文学賞を受賞した『狭小邸宅』にてデビュー。著書に『カトク 過重労働撲滅特別対策班』『サーラレーオ』『ニューカルマ』『夏が破れる』などがある。

集英社
2024年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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