【『地面師たち』原作をたっぷり試し読み】不動産詐欺集団が狙うのは、時価100億円の物件……。Netflixでドラマ化、新時代のクライムノベル! 新庄耕『地面師たち』

試し読み

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 知らぬうちに息を詰めていた拓海は、鼻腔からゆっくりと息を吐き出した。ここまでくれば、あとは残代金の振り込みだけだった。
 今回の契約では、買主と売主の二者間取引のため、手付金や中間金を差し引いた六億円近くにおよぶ残代金は、マイクホームの口座から島崎健一の口座に振り込まれることになっている。無論、自宅が売却されていることなどつゆほども知らない島崎健一本人の口座に振り込まれることはない。拓海たちは、運転免許証を偽造するなどして、漢字の異なる“シマザキケンイチ”名義の架空口座を用意していた。手付金や中間金については、すでにその口座に振り込まれており、マイクホーム側もなんら疑いをもっていない。
 司法書士の言葉をうけ、マイクホームの社長が部下の男性社員に対して残代金の支払いをするよう指示を出している。男性社員はその場で、銀行に待機させている別の担当者に送金を実行するよう電話をかけた。
 人声がまばらになった。間もなくそれも絶え、重い空気がひっそりとした室内にただよう。
 十分は経ったような気がするが、ガーミンの文字盤を見ると三分しか経っていない。心拍数があがり、九十を超えはじめている。拓海は所在なくテーブルの書類を整理しつつ、遅々とした時間の流れを意識していた。
 残代金が架空口座に振り込まれ、着金確認がとれしだい、拓海の部下という設定でハリソン山中から連絡がくることになっている。それでほとんど片がつく。通常は一時間もせず完了するだろうか。銀行の混雑状況によってはそれ以上かかることもないではない。
 密室に欺く者と欺かれる者が顔を突き合わせ、なにもせず、じっと待つよりほかないこの時間がいとわしかった。後藤も、プロジェクトの成功を目前にして柄にもなく緊張しているのか、黙って卓上のスマートフォンに眼を落としている。
 おもむろに社長がササキの方に微笑をむけたかと思うと、
「あの、今日はわざわざこちらまでお越しくださって、ありがとうございました」
 と、口をひらいた。
「老人ホームの住み心地はいかがですか」
 着金確認前とはいえ、社運をかけた取引を一応はまとめあげて気をよくしているのか。上気した社長の顔には、不安と紙一重の、無理やりこしらえたような興奮がひろがっている。
 売主が個人の場合、不本意な理由で売却を迫られているケースもありうる。とりわけ今回のように希少な物件の場合、買主側は、些細なことで売主が機嫌をそこね、気が変わらぬよう、会話は時候の挨拶程度にとどめ、求められれば口を開くという態度をとることが多い。マイクホームの社長が積極的にササキへ話しかけるのは、拓海たちにとって意外だった。
「……ええ。そうですね……まあ」
 役目を終えて気を抜いていたらしいササキが、ふいの問いかけに狼狽(ろうばい)していた。
 島崎健一が現在入居している老人ホームについては、入居一時金に億を超す金が必要なこと以外は、ホームの名称と所在地ぐらいしか事前情報をササキに伝えていない。それ以外のことをたずねられても答えられるはずがなく、下手に答えればあっさりと化けの皮がはがれてしまう。

新庄耕(しんじょう・こう)
1983年東京都生まれ。慶應義塾大学環境情報学部卒業。2012年、第36回すばる文学賞を受賞した『狭小邸宅』にてデビュー。著書に『カトク 過重労働撲滅特別対策班』『サーラレーオ』『ニューカルマ』『夏が破れる』などがある。

集英社
2024年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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