疲れきって退職した私が、新しく始めた「ちょっと変な仕事」とは。津村記久子『この世にたやすい仕事はない』試し読み

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ストレスに耐えかね、14年続けた仕事を辞めた「私」は、「一日コラーゲンの抽出を見守るような仕事はありますかね?」と職安の相談員に尋ねる。あります、と紹介されたのは、隠しカメラを使った小説家の監視だった――。

「働く」とは一体何なのか。共感と感動のお仕事小説『この世にたやすい仕事はない』(新潮文庫)の冒頭を公開します。

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 家からできるだけ近いところで、一日スキンケア用品のコラーゲンの抽出を見守るような仕事はありますかね? と相談員さんに条件を出してみた。だめもとだった。前職は燃え尽き症候群のような状態になってやめ、心身を休めるために実家に帰っていた。その後、失業保険が切れたので、消耗しきって仕事を辞したとはいえ、いつまでもぶらぶらしているわけにもいかないと思い、とりあえず職探しを始めたのだが、正直、働きたいのか働きたくないのかわからないような状態だったので、前述のようなふざけたことを言ってしまった。怒られるだろう、と思った。しかし、初老の相談員の女性は、「あなたにぴったりな仕事があります」と、その柔和な物腰にそぐわない感じで、キラリとメガネを光らせたのだった。それで紹介されたのがこの仕事だった。確かに、私の希望通りの仕事ではあったが、コラーゲン抽出を見張る人にも苦労はあるように、この仕事もそれなりにつらい。

 私が担当している山本山江(やまもとやまえ)という人物は、小説を書くことを生業にしていて、知人からそれとは知らずに密輸品の『何か』を預かっているらしい。ブツはわりとやばいものなのだそうだが、私みたいな下っ端は教えてもらえない。ブツの隠し場所は、山本山江が膨大に所持しているBDかDVDのケースの中のどこかだということはわかっているものの、あまりにも量が多いので、山本山江の外出時におこなった非公式なガサ入れの際に、ブツを見つけることができず、代わりにカメラを仕掛けて、知人が受け取りに来るのを見張っているとのことである。もしくは、山本山江自身が、奇跡的にディスクの整理をしようと試みてブツを発見するのを待っている。山本山江は、ディスクを持ちすぎており、一枚ぐらい借りたものが紛れ込んでいても、もはや見分けがついていない可能性があるらしい。ブツを預けた側からすると、山本山江が何も知らずに保管していることによって、今のところは見つからずにすんでいるので、更に何かを預けようとするのではないかという見方もある、と私に仕事の指示を出す染谷チーフが言っていた。宅配便に神経を尖らせなければいけないのはそのためだ。

津村記久子
1978年大阪市生まれ。2005年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル」で紫式部文学賞を受賞。2023年『水車小屋のネネ』で谷崎潤一郎賞を受賞。

新潮社
2024年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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