「マジ頼むわ」不良高校生の元に舞い込んだバイトは1歳児のベビーシッターだった……瀬尾まいこが贈る感動小説『君が夏を走らせる』試し読み

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ろくに高校に行かず、かといって夢中になれるものもなく日々をやり過ごしていた大田のもとに、ある日先輩から一本の電話が入った。聞けば一ヵ月ほど、一歳の娘・鈴香(すずか)の子守をしてくれないかという。断り切れず引き受けたが、泣き止まない、ごはんを食べない、小さな鈴香に振り回される金髪少年はやがて――。

本屋大賞受賞作の『そして、バトンは渡された』や、映画化でも話題の『夜明けのすべて』の著者である瀬尾まいこさんが贈る、青春×育児の感涙小説! 『君が夏を走らせる』(新潮文庫)より、冒頭部分を公開します。

1

「どういうことっすか?」

 あまりに驚いて俺が声を上ずらせるのに、先輩は、

「だから、一ヶ月、こいつの面倒見てくれたらいいってこと」

 と平然と言った。

「こいつって……」

 目の前には子どもがちょこんと座って、おもちゃの車を動かしている。頭も手も足も何もかもが小さくて、子ども自体が人形みたいだ。

「鈴香(すずか)って言います。今一歳十ヶ月で、今度の九月で二歳です。よろしくお願いします」

 女の子をまじまじ見ている俺に、先輩の奥さんが子どもの頭をぺこりと下げさせながら言った。女の子の細くて茶色い髪の毛がふわりと揺れる。一歳の子どもなんて間近で見たことなかったけど、まだこんなにも小さいのだ。赤ちゃんに毛が生えたような子どもの面倒なんて、見られるわけがない。

「いやいや、無理っすよ。俺、バイトって、てっきり先輩の会社の手伝いかと思ったからやるって言っただけで」

 昨日の晩、中武(なかたけ)先輩からバイトしないかと電話があった。俺より三歳上の先輩は、今俺が通っている高校を一年で中退し、その後しばらくふらふらしていたものの今は建築資材を扱う会社で働いている。

「そんな難しい仕事じゃないし、バイト代はずむぜ。どうせクラブもやってないんだし、お前暇だろ」電話口でそう言われて、夏休みが始まる前のテスト明けの休日さえ持て余していた俺はすんなり了解した。先輩の仕事場の前は何度か通ったことがある。小さな事務所と倉庫があり、よく鉄板や支柱などの資材が運び込まれている。きっと、荷物の積み下ろしや梱包(こんぽう)作業の手伝いをするのだろう。それなら、俺でもできると思ったのだ。

「簡単、簡単。朝九時過ぎから夕方まで一緒に遊んでくれたらいいだけだからさ。な、鈴香」

「遊ぶって、何して……」

 車に飽きた子どもは、次はおもちゃのフライパンをひたすら揺すっている。とてもじゃないけど、一緒に楽しめそうにはない。

「鈴香は勝手に遊んでるから、お前は隣にいてくれたらいいだけ。寝転がってテレビ見ながらでいいしさ」

 先輩はのん気に笑っているけど、そんな簡単なわけがない。ばかな俺にも子どもの面倒を見る責任の重さは、十分わかる。

「ごめんなさいね。無茶なお願いだってわかってるんだけど、急きょ切迫早産で入院になってしまって。昨日の健診で診断されて、今日一日、猶予(ゆうよ)はもらえたものの明日の朝には入院で……。あまりに急で、保育園や託児所を探す間もないし、私たち駆け落ち同然で結婚したから親には頼めなくて……」

 先輩の奥さんが大きくなったお腹(なか)をさすりながら言った。奥さんとは初対面だ。先輩とはまったく違うまじめな人と結婚したといううわさを聞いていたけどそのとおりのようで、黒い髪を一つにまとめて、化粧っけのないつやつやした顔は、健康的で清潔感が漂っている。妊娠しているせいなのか、母親だからなのか、ゆったりとした話し口調と動作は、入院だと言っても焦(あせ)ったふうでもなく、こっちまでついつい安心してしまう空気を持っている。

「ベビーシッターや託児所で子どもを虐待してる事件とかたまに聞くじゃん? ああいうのマジびびるわ。かわいい娘を、知らねえやろうに任せるなんて怖すぎだろ? くそな俺の親になんて触らせたくもねえし。嫁さんの親には完全に切られてて……。だったらどうするって考えたら、お前がヒットして大急ぎで頼んだわけ。俺が仕事の間だけだからさ。俺の仕事場、すぐそこだろ? なんかあったら速攻で駆けつけるし。な? いい考えだろ?」

 先輩は名案を話すかのように自信満々に言った。社会人になってまともになった先輩だけど、風貌(ふうぼう)や言葉のはしばしには昔やんちゃしてたころの名残がある。そんな先輩はまだしも、しっかりしていそうな奥さんは、俺なんかに子どもを託すのが心配じゃないのだろうか。俺より、おんぼろ託児所や見ず知らずのベビーシッターのほうがよっぽどましだし、奥さんの友達に適当な人物がいそうなものだ。

瀬尾まいこ
1974(昭和49)年、大阪府生れ。大谷女子大学国文科卒。2001(平成13)年、「卵の緒」で坊っちゃん文学賞大賞を受賞し、翌年、単行本『卵の緒』で作家デビュー。2005年、『幸福な食卓』で吉川英治文学新人賞、2008年、『戸村飯店 青春100連発』で坪田譲治文学賞、2019年、『そして、バトンは渡された』で本屋大賞を受賞する。他の作品に『天国はまだ遠く』『あと少し、もう少し』『夜明けのすべて』『私たちの世代は』などがある。

新潮社
2024年7月22日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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