訪れたアパートの住人は、全員“元犯罪者”だった――伊岡 瞬『残像』試し読み

試し読み

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 齢(とし)は三十歳くらいだろうか。背は一平より少し低いぐらい。肩より少し長めの髪を、無造作にポニーテールにまとめている。ほとんどすっぴんではないかと思うほど化粧は薄いが、それでも目を引く美人だ。なんとなく猫を連想させる目が印象的だ。
 どこかで会ったような気がするが、思い出せない。とにかく、率直に綺麗(きれい)な人だな、という感想しかない。もしかすると、何かの撮影でもやっていて、この人がモデルか女優で、さっきの女がマネージャーだろうか。
「ねえ、聞いてるんだけど」
 ネコ科の目で睨(にら)まれた。あまりきちんと手入れされていない眉(まゆ)が野性的で、それもまた似合っている。映画に出てくる凄腕(すごうで)の暗殺者(アサシン)というイメージだ。
「あ、あの、胃の」
 息がかかりそうなほど近くに顔があって、ついしどろもどろになった。
「アノイノ?」
「例の胃痙攣(いけいれん)みたいよ」
 先に入った女が、葛城の部屋のドアから顔をのぞかせて代わりに答えた。続けて「ねえ薬はどこだっけ」と訊(き)く。
「たしか、カラーボックスの一番上の段だったと思うけど、手伝おうか?」
 そう言いながら美貌(びぼう)の暗殺者(アサシン)も、一平の脇を抜けて部屋に入っていった。
 さっさと帰ろうとしたのも忘れて、ぼんやり立っていると、背後からサンダルを引きずる音が聞こえた。
 また一人、一〇二号室から女が出てきた。三人目だ。やはり、何かやっていたのは間違いない。
 三番目の女は無言だった。上下ともかなり着込んで型のくずれたスウェットを着て、ショートボブほどの長さの髪が乱れている。「くしゃくしゃ風ボブ」などという洒落(しやれ)たものではなく、ただの寝癖のようだ。今までの中では一番若そうで、一平と同い年くらいに見える。
 この女はひどく痩(や)せていて、もともと大きそうな瞳(ひとみ)が、さらに目立っていた。どことなく、怯(おび)えた草食動物を連想させる顔立ちだ。化粧っ気はまったくない。同世代の女性の完全な“すっぴん”を見る機会などないので、さっきと別の意味でどきどきした。
 彼女は、まるで一平が葛城に害を与えたとでも言わんばかりに、怯えた目でみつめてから、ドアが開いたままの一〇三号室の中へ声をかけた。
「なに?」
 見た目とはギャップのある、ぶっきらぼうな言いかただ。
 二人目の女のものらしい、ややハスキーな声が答える。
「今日は、胃痙攣みたい」
「それ、痛い?」寝癖の草食女が、髪のはねを押さえながら訊く。
「痛いよ、かなり痛い。わたしも昔なったことがある。泣きたくなる」
「やだ」
 やりとりを聞きながら時刻を確認する。午後五時三分。定時は過ぎている。堂々と帰れる。
 しかし、と迷った。正直をいえば、二人目の女には興味を引かれていた。十歳ぐらいは年上かもしれないが、そんなことは気にならない。あの美貌とクールな雰囲気には、いままであまり出会ったことがない魅力を感じる。
 ここで退去したらおそらく二度と会えないだろう。それはなんとなく心残りだ。それに、もし芸能人だったら、陽介に自慢できる。本物の暗殺者(アサシン)だったら、もっと自慢できる。少し怖いが。
 中途半端に開いたドアの前に立ってぐずぐずしていると、和風ラテン系の女が顔をのぞかせた。
「ねえ。そこの坊や、ちょっと待ってて」
「え」
 反射的に身を引こうとしたとき、ぐずぐずしていた理由が視角の外からすっと現れて、一平の手首を掴(つか)んだ。
「少しだけ、待って」
 ひんやりとした声と手で、指は細いが力強かった。
「はい」と答えていた。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

伊岡 瞬(いおか しゅん)
1960年東京生まれ。05年『いつか、虹の向こうへ』で第25回横溝正史ミステリ大賞とテレビ東京賞をW受賞しデビュー。16年『代償』で啓文堂書店文庫大賞を受賞。同作は50万部突破のベストセラーに。著書に『145gの孤独』『瑠璃の雫』『教室に雨は降らない』『悪寒』『本性』『冷たい檻』『仮面』『清算』『水脈』などがある。

KADOKAWA カドブン
2024年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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