アパートの建つ敷地は、意外に広かった。ただし、ずいぶんと荒れた印象だ。そこらじゅうに雑草が生え、手入れもされていない樹木が、二階の屋根に届きそうだ。
木造モルタルのかなり築年数が古そうな建物は、不自然に敷地の片側に寄って建っている。昔はもう一棟あったのかもしれない。それを取り壊したかなにかして、更地のまま放置しているように見える。
敷地全体は、一平の腰ほどの高さの苔(こけ)むしたブロックで囲まれていた。塗装が剥(は)げ錆(さび)が浮いた鉄製の門もかなり旧式だ。『ルソラル』でバイトをするようになって名前を覚えたのだが、『アーム錠』と呼ばれる形式で、「錠」と名はついているものの、ノブをただ半回転させるだけなので、鍵(かぎ)としての機能はない。
そのアーム錠を回して門扉を押し開けると、ぎいっと神経に障る金属音が響いた。
アパートの壁にへばりつくように、錆(さ)びた鉄製の外階段があり、その脇に集合ポストが見える。建物は奥に延びる形で一階と二階に三室ずつ並んでいるようだ。まさに昔ながらの「○○荘」という印象だ。
そう思ったら、壁のこちらから見える場所に、ペンキでやたら画数の多い名前が書いてある。読めない。かすれているというのもあるが、漢字そのものが読めない。あとで写真を撮って調べよう──。
そんな考えが顔に出たのだろうか。それまでほとんど口を開かなかった葛城が「ひこばえそう、と読みます」と言った。
「あ、『ひこばえ』ですか」
そう言われてみると、漢字一文字の下にやや小さく《ひこばえ》と振ってある。しかし、意味がわからないことに変わりはない。
「部屋はどこですか」
「一階の一番奥です。一〇三号室」
「ここまで来たんですから、ドアの前まで送り届けます」
「申し訳ない」
一〇一、一〇二と通り過ぎるが、表札らしきものは出ていない。ドア付近にも生活感はなく、無人なのか有人なのかの判断すらつかない。
一〇三号室の前に立つ。ドアに貼られた名刺ほどの大きさの厚紙に『葛城』とだけ手書きしてある。これが表札の代わりだろう。
葛城が、受け取った自分のリュックから鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込んだそのとき、たった今、前を通り過ぎた一〇二号室のドアが開いた。住人がいたのだ。
「あれ、ナオさん。早いじゃない。まだ料理は──」
そう言いながら、半分ほど開けたドア越しに中年の女が顔をのぞかせた。暢気(のんき)そうだった表情が、一平の顔を見るなり強(こわ)ばった。
「あんた──」
一平に向かって何か言いかけた言葉を途中で飲み込み、葛城に視線を戻す。
「ナオさん。また具合悪いの?」
サンダルをつっかけて通路に出て来た。大胆な花柄のニットにカラシ色のパンツという上下に、真っ青な地に鮮やかな熱帯魚の描かれたエプロンをつけている。渋谷(しぶや)の人ごみにいても、すぐに見つけられそうな派手ないでたちだ。主婦だろうか。少なくとも、このアパートの雰囲気には似合わない。一緒に煮物らしい匂いも漂い出てきて、急に空腹を感じ、小さく腹が鳴った。
「ちょっとだけ」
片手にドアのノブを握ったまま、葛城が答えた。
ナオさん、とは葛城の呼び名らしい。そういえば下の名は「直之」だった。
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