自分らしく生きたいと願うすべての人に贈る、美味しくて心温まる物語! 伽古屋圭市『猫目荘のまかないごはん』試し読み

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古い建物だが、格安の家賃が魅力の下宿屋「猫目荘」。再就職も婚活も上手くいかず焦る伊緒は、一番の新入りだ。食事は一緒、風呂も共同、住民は個性派揃いで戸惑うことばかり。だが、2人の男性大家が作るまかないは、クリームシチューや豚キムチ、温奴など、なじみの料理に旬の食材とアレンジを加え、目もお腹も幸せにしてくれる。そんな中、伊緒に思わぬ転機が――自分らしく生きたいと願うすべての人に贈る、美味しくて心温まる物語!

声優とアーティスト、2足の草鞋で活躍するKISHOW(谷山紀章)さんのおすすめ本として話題の本書より、冒頭部分を特別公開いたします。

 ***

第一話 春来たり、おんぼろ下宿とまかないと

 目の前には満開の桜。
 その向こうに鎮座するどす黒い建物を見つめ、わたしはただただ呆然(ぼうぜん)としていた。たぶん、間抜けに口を開けて。
 地域としては“阿佐谷(あさがや)”になるのだろうが、どの鉄道路線の駅からも絶妙に遠い場所にある、木造二階建て。壁は醤油(しょうゆ)で煮染(にし)めたように真っ黒で、今年は昭和(しょうわ)何年だっけと考えてしまうような佇(たたず)まい。朽ちかけているわけではないものの、その古くささゆえに震度2で崩れてしまうんじゃないかと思える。杉並(すぎなみ)区の指定文化財だと言われても納得できそう。
 狭いながらも前庭には二本の桜の木が植えられていて、満開だった。麗(うら)らかな午後の陽射しのもと、風が通りすぎる。
 青い空、白い雲、風に舞う桜の花びら、黒く古風な建物。絵になる光景だ。
 自分が住むと思わなければ……。
 まかない付きの、いわゆる「下宿屋」だとは聞いていた。しかしここまで古色蒼然(そうぜん)とした建物だとは想像だにしなかった。
 短い敷石を挟んだ玄関の引き戸の上には『猫目荘』と書かれた木製の額が掲げられている。これで「ねこのめそう」と読むらしい。変わった名前だ。
「なぁ」
 唐突に声が聞こえてびくりとする。
 反射的に半歩あとずさって下を見やると、猫がいた。どこから現れたのか、玄関前に立ち、もういちど「なぁ」と鳴く。ニャー、じゃない。確実に日本語で「なぁ」と言っている。
 茶と白の毛色で、でっぷりと太った猫だ。ふてくされたような顔も逆に愛嬌(あいきょう)がある。首輪をしているので、野良猫でも地域猫でもなさそう。この下宿屋で飼っている猫だろうか。
 門柱のところにいるわたしの足もとまで、とことこ、いや、のたのたと近づいてきた。思わずしゃがんで「きみ、かあいいねー」と頭を撫(な)でる。
 やはり人に慣れているのか、されるがままで、きゅっと目をつぶって気持ちよさそうな表情をする。さらに愛嬌マシマシだ。
 そのとき、ガラガラっと音を立てて玄関の戸が開いた。

伽古屋 圭市(かこや けいいち)
1972年大阪府生まれ。第8回『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞した『パチプロ・コード』(文庫化にあたり『パチンコと暗号の追跡ゲーム』に改題)で、2010年にデビュー。著書に『散り行く花』『断片のアリス』『冥土ごはん洋食店 幽明軒』『あやかしよろず相談承ります』『ねんねこ書房謎解き帖 文豪の尋ね人』など多数。シリーズに「かすがい食堂」「クロワッサン学習塾」などがある。

KADOKAWA カドブン
2024年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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