教授を吊るし上げていた活動家が朝日の記者に…元産経記者が見たメディアの現実 『メディアはなぜ左傾化するのか』試し読み

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 なぜ彼らは特定の勢力や団体に甘いのか? 左派メディアは、事実よりもイデオロギーを優先していないか?

 現場取材に徹底的にこだわり続けた元産経新聞記者、三枝玄太郎さんが綴った『メディアはなぜ左傾化するのか―産経記者受難記―』(新潮社)が刊行された。

 ある時は警察と大喧嘩をし、ある時は誤報に冷や汗をかき、ある時は記者クラブで顰蹙を買い、そしてある時は「産経は右翼」という偏見と闘いながら、現場を這いずり回った一人の記者の受難の日々とは?

 今回は試し読みとして、第1章「心情左翼なのに産経新聞に入ってしまった」から一部を公開します。

第1章 心情左翼なのに産経新聞に入ってしまった

 教授を吊るし上げていた青年が朝日記者に

 研修を終えて5月から静岡支局に配属され、その後、1カ月にも及ぶ連続の宿直勤務という「修行」が明け、ようやく静岡中央署、南署という市内の警察署を任されることになった。
 記者クラブに行って、朝日、毎日、読売……と各新聞社のボックスを回って名刺を配る。1社あたり3畳ほどのボックスに仕切られていて、そこに産経、朝日、NHK、毎日、静岡朝日テレビ、静岡第一テレビ、テレビ静岡、中日新聞、読売新聞、静岡新聞と静岡放送の順に分けられていた。
 朝日にも僕と同期の記者が二人いた。Nくんと、もう一人は、今は名前も覚えていない寡黙な青年だった。Nくんは快活で、口を開けば警察の悪口を言っているような感じだった。どこかで会ったことがあるような気がするが思い出せない。
 僕よりも遅れて、ある日、毎日新聞に新人記者が配属された。女性だった。その人があいさつ回りに来た。僕とは全く話が弾まず、ものの数秒で産経のボックスを出て行ったが、隣から「あっ、Nさんじゃないですか。私、〇〇女子大の学生委員会にいたときから尊敬しておりました」とまるでアイドルに出会ったかのような嬌声が聞こえた。
 そこでやっと思い出した。大学4年生の頃、成績は低空飛行で、「不可」が一つでもあれば、履修単位が足りずに留年という瀬戸際だった。その後期試験で降って湧いたのが「学費値上げ反対スト」だった。早稲田に文字通り、赤旗が舞った。ストライキになれば、試験はなくなり、レポート提出で事足りる。当時、僕のように手に汗を握って推移を見守った一般学生は大勢いただろう。
「団体交渉」という名のもとに、学生委員会の委員長が渉外担当の教授と交渉する。
 とはいえ、交渉といっても名ばかりで、事実上はまるで文化大革命の吊るし上げみたいなもので、政経学部の学生委員長が「お前じゃダメだ、学部長を出せ。良いから出せ」とハンドマイクで教授の耳元で怒鳴り散らしていた。
 毎日新聞の女性記者の嬌声で、そのときのことがふと思い出された。
「学部長を出せ。お前じゃ話にならない」
 朝日のNくんは教授の耳元で怒鳴り上げていた学生委員長その人だったのだ。
 その吊るし上げ集会は早稲田の3号館前の広場で行われていた。誰かが「法学部はスト突入」と叫び、ウワーッという歓声が上がった。「文学部もスト突入!」またウワーッと大歓声が上がる。
 しかし、政経学部はNくんの怒声と「学部長を出せ」の繰り返しで、埒(らち)が明かない。冬の昼は短い。辺りは闇に包まれてきた。
「ひょっとしたら、政経学部だけ筆記試験をやることになったりして。そうなったら終わりだ」と気が気でなくなってきた。1期下で仲が良かった大島真生(まなぶ)くんと正門のそばにある地下の喫茶店に入ったり出たりを繰り返したが、なかなか決まらない。
「また行ってみようか」と1時間ほどして、大島くんと連れ立って喫茶店を出て、3号館に行くと、まだやっていた。
「商学部でスト決行!」「ウワーッ」と歓声が上がった刹那(せつな)、大島くんがブチ切れた。
「いつまで同じことやってんだ、バカ野郎」とそばにあった立て看板を蹴ったのだ。
「ガーン」と大きな音がしたので、Nくんら学生委員会の幹部連中とその取り巻きの目が一斉に僕らに注がれた。
「バカ、逃げるぞ」と言って、校外まで全速力で逃げた。誰も追ってこなかった。ストは夜遅くに決まった。あのときにハンドマイクで叫んでいた青年が朝日に入り、やきもきしていた成績低迷の僕は産経に入社した。立て看板を蹴飛ばした、当の大島くんは、僕の後を追うように、その翌年に産経新聞に入社した。

 早稲田と革マル派の深い関係

 当時の早稲田は過激派である革マル派の金城湯池(きんじょうとうち)と言われていた。早稲田祭実行委員会は革マル派が仕切っているとも囁かれていた。来場者数は延べ20万人にも及ぶといわれる早稲田祭に入場するには、パンフレットを当時、500円で購入しなければならなかった。これが革マル派の多大な資金に化けたことは想像に難くない。
 政経学部の学生委員会も革マル派の影響力が強いといわれていた。1972年には中核派とみなされた早稲田大の第一文学部の学生が、角材などで革マル派の学生に滅多打ちにされて死亡した事件も起きている。
 僕の卒業後、1994年に早稲田大学総長に就任した奥島孝康教授は、革マル派の排除に乗り出した。1997年には千葉市中央区にある早稲田大学法学部教授の自宅の電話が革マル派に盗聴される事件が発覚し、警視庁は革マル派非公然活動家10人を指名手配した。1997年から2001年まで早稲田大学は早稲田祭を中止する措置を取った。

 新聞記者が労組の職員に

 Nくんとはそれなりに仲が良かったが、彼はほどなくして朝日を辞めた。
 それから10年以上経ったある日、国税担当になった僕は、ある全国的な組織を持つ労働組合が東京国税局査察部に強制調査(査察)を受けた際、国税や特捜部の係官が段ボールを押収して車に積み込むおなじみの写真を撮ろうと、その組合に急行した。建物の外で推移を見守っていたら、何とNくんが出てきたではないか。
「おうっ、N、ひさしぶりじゃないか」と言ったら、彼はバツが悪そうに、「カネの話は抗弁できない。取材は拒否だ」と苦笑いを浮かべて建物の中に消えた。何と朝日を辞めて、労組の職員になっていたのだった。
 毎日の女性記者はその後も毎日にいて、特派員として活躍している。
 彼女がデスククラスにでもなれば、新入社員を採用する1次試験の面接担当官くらいにはなるだろう。また左派系の学者のゼミに入っていて、その担当教授から推薦をもらって朝日や毎日の面接を受けている学生は多いだろう。こうして左派系のある意味で「色のついた学生」の系譜は絶えることなく続いていくのだと思う。
 朝日や毎日新聞の記者の中には、明らかに活動家系の記者がいる。その記者が事件を担当する官庁を経験したという話は寡聞にして知らない。別に事件持ち場をやらなければ新聞記者ではない、といった時代錯誤なことを言うつもりはない。ただ、その記者が書く記事、書く記事、いつもそうした「界隈の人々が喜ぶ記事」ということは、その記者はそれ以外に書きたい記事はないのだろうか、と邪推してしまう。
 産経新聞には長い間、「事件をやらぬ者は社会部記者に非ず」という伝統が残っていた。産経の右派系の論客といえば、古くは石川水穂(みずほ)さん、最近では僕より入社年次が1期上の阿比留瑠比(あびるるい)さんらがいるが、石川さんも阿比留さんも警視庁担当を経験している。
 阿比留さんにとって、警視庁担当をしていた1年間はどういった1年間だっただろうか。事件担当記者を志して記者になった僕ですら、何度も逃げ出したくなるくらい、山あり谷ありのきつい日々だった。阿比留さんは事件記者志望だったわけではないから、尚更辛かっただろうと推察する。
 阿比留さんが近づいてくると「オエ~ッ」という、えずくような大きな声が聞こえてくるので、キャップを務めていたMさんなどは「お、阿比留がトイレから帰って来たぞ」と笑っていたものだった。
 そういう辛い日々を送った阿比留さんだったから、社会部にいたときも政治部に移っても、一目置かれていた。

(以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて)

三枝玄太郎
1967(昭和42)年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1991年、産経新聞社入社。警視庁、国税庁、国土交通省などを担当。2019年に退職し、フリーライターに。著書に『十九歳の無念 須藤正和さんリンチ殺人事件』など。

新潮社
2024年6月17日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

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