『馬の惑星』
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『馬の惑星』星野博美著
[レビュアー] 岡美穂子(歴史学者・東京大准教授)
東へ西へ 馬を巡る旅
日本人にとって、競馬ファンを除けば、馬との生活はそれほど身近ではない。街中で馬を見かけることはほとんどないし、モンゴルの夏の祭典ナーダムのように子供たちが命がけで馬を走らせる行事もない。しかし「馬を駆ること」には漠然とした憧れがあり、戦国時代を舞台にした映画やドラマでも、現実のいくさとは乖離(かいり)しているはずであるが、サラブレッドを駆る武将が草原を埋め尽くす。20世紀の歴史・考古学界で白熱した「騎馬民族征服王朝説」がいつまでも人々の心を捉えて離さないのも、馬への憧憬がその根底にあるのだろう。著名な君主には大概「愛馬」がいたように、馬は人間にとって、特別な意味を持つ動物である。
本書では「馬」を鍵として旅がモンゴル、スペイン、モロッコ、トルコへと展開される。この旅は単なる地理的移動ではなく、歴史の旅でもある。馬を移動・軍事手段として手に入れた人類の文明や帝国の興亡という壮大なテーマが見え隠れするものの、作者の目は、現在そこに残る文化や人々の暮らしに注がれている。作者の馬への愛着も感じられるが、異国への旅の中でそれが中心となるというより、馬に関心を持つきっかけとなった、五島福江島の自動車学校で馬と暮らした日々(星野博美『島へ免許を取りに行く』を参照)への想(おも)いがベースとなっているようにも見える。
星野博美氏はノンフィクション作家と表現されることが多い。しかし、その筆が読者を引き込む世界はノンフィクションというより、フィクションに近いのではないかと感じている。虚構というのではない。それは確かに実在するのであるが、星野氏の目を通して描かれることで、現実の身体は何処(どこ)にあろうとも、私たちはその才能によって織り出される時空を超えた旅を疑似体験する魔法にかかってしまう。本書を読み終える時には、まるで旅を終えて帰路に着くような一抹の寂しさを感じるかも知れない。(集英社、2200円)