「二〇一〇年の十月十日。私たち六人は偶然ここに集まって、それで、常連になったの」
原田萌実ことアキは、すべて話し終えた後で、こう締めくくった。
その間、佐橋は何度も逃げようとしたが、腕っ節の強い店員に椅子に何度も押し戻され、結局、石の冷たい床に座り込んでいた。カウンターの中の柄本希は立ったまま、ぐらぐら煮立った鍋を見下ろしながら、話を引き継ぐ。
「あなたに復讐するために一番の方法を話し合った。そして、我々があらゆる人間に開かれた名店を作ること、愛好家が絶対に無視できない、新しい時代の成功のモデルプランになることを最優先の目標とした。目指すのは全方位型の味わいの淡麗中華そば。なぜなら、あなたはクリア系のスープの味わいに語彙力をもっていない。美香さん、恵さんとスープのクオリティをあげるために、徹底的に研究を重ねた。佐橋ラー油がここに来るその日までは、話し合って全員、タバコもコーヒーもやめた。そうだよね」
柄本希は麺をほぐし、鍋に投入しながら、入り口のところに寄りかかっていた、例の用心棒のような体型の店員に目を向けた。
「うん! 今夜からやっと、私たちはキャラメルラテが飲めるってわけ」
その声で、佐橋はその店員が女性だとようやくわかった。鋭い目つきと鍛え抜かれた身体にばかり目が行って、性別まで気が回らなかったのだ。彼女はカウンター前までやってきた。
「調理のほとんどは希さんが担当するから、私は自分に何ができるかなって考えた。そこで、お客さんが安心して食事を楽しめる店作りを目指した。セクハラ野郎には力が一番効くと思って、空いた時間で、格闘技と重量挙げを習って、身体を鍛えた。そうしたら、もう誰も私のことを『日本一可愛い超巨乳店員』だなんて言わなくなった」
そうしている間にも、柄本希が茹で上げた麺の水気を勢い良く切り、スープを注いだどんぶりに移す様子が、ベリーショートに鼻ピアスの店員の肩越しに見える。
「恵の頑張りを見て、私もなんかしなくちゃって気持ちになった。私は海外からのお客さんに対応できるように、英語を学んだ。ここにいるみんなが少しずつお金を出してくれたおかげで、一年間、ニューヨークに留学して、ラーメンブームの広がりを間近で見ることができた。カレッジで誰もが生きやすい街作りを学んだ。それは店のリニューアルにおおいに役立った」
店員二人に同じ豚のタトゥーが入っていることに、佐橋はようやく気付き、震え上がった。原田萌実が余裕たっぷりの調子で割って入ってきた。
「店を人気店に押し上げるためには、キャッチフレーズが何より大切。私はグルメ専門のライター一本で食べていけるように死に物狂いで頑張った」
「どこかの誰かさんと違って、ママは守備範囲が広いからそりゃ売れるよね」と、中学生がふふっと笑う。萌実が得意げに続けた。
「署名記事を書けるようになったタイミングで『全方位型淡麗』という言葉を生み出した。『のぞみ』がリニューアルする前から、意識的に広めておいてブレイクの土壌を作り、ことあるごとにメディアで援護射撃した」
これからどうぞよろしく、同業者ですもんね、先輩、と付け加え、萌実は高級そうな革製のケースから「ライター 原田萌実」という名刺を優雅に取り出すなり、床に座り込む佐橋に強く押しつけた。替え玉太郎は長いアームのついた小型カメラを高く掲げながら、佐橋のおびえきった顔を勝手に撮影している。
「俺は、あんたの居場所を業界から奪うために、ラーメン専門YouTuberになることを決めた。あんたがバカにする『うまい』連発の戦術で、小さい子どもや女性ファン層を取り込んだ。白いTシャツを着ているのは媚びているからじゃない。それがラーメンが一番美味しそうにみえる清潔なレフ板だからだよ。汁を飛ばさないで麺をすするために特訓を積んだ。白Tが完璧に似合うようになるために、恵さんと一緒にジムに通い、二十キロ痩せたよ。ダイエットはきつかったけど、朝陽がサポートしてくれたから……」
替え玉太郎の横に親しげに寄り添うスーツの男は、よく見れば、ライフスタイル情報誌で最近顔を見ることが増えた、若手建築家の片山朝陽だった。
「僕は『のぞみ』の居心地の良い店作りを目指し、建築家としての経験を積んだ。世界中のレストランを見て回り、研究を重ねた。ニューヨークでは美香さんと合流して、現地のラーメン屋を巡った。調理はほぼ柄本さん一人だから、彼女の体格から逆算した厨房の動線づくり、そして、一見シックで都会的だが、女性一人客はもちろんあらゆるジェンダーアイデンティティ、障害をもつ人にも対応できる独自のデザインを編み出した。足元や手元は良く見えるけど、客同士の顔はあまり良く見えない、落ち着いた照明になるよう心がけた」
「おじさん、これら全部の努力は、『のぞみ』をおふくろ、部活、愛情、ノスタルジー、癒し、のキーワードで語れないようにするためなんですよ」
中学生の春が腕組みをして、佐橋を見下ろしている。耐えられなくなって、佐橋は叫んだ。
「お前ら全員暇かよ!! なんで人生かけて、そこまでやるんだよ。もっと有効に時間を使え! 他に建設的なやり方はいくらでもあるだろうが!!」
赤山美香がこちら側のテーブルに、中華そばを両手でことりと置いた。さっきからずっと気になっていた、鶏と魚介ベースの、ふんわりと食欲をくすぐる、雑味のない香りが一層強まる。逃げたいという気持ちとどうしても食べたいという気持ちが拮抗し、佐橋は涙ぐんだ。結局、佐渡恵の手によって無理やり椅子に座らせられ、しぶしぶと箸を取る。
あらゆる媒体で取り上げられていた、のぞみの中華そばは、黄金色のスープにちぢれ麺が沈み、ネギ、メンマ、チャーシュー、ナルト、煮卵がバランスよく配置された、ごくごく王道を行く見た目だった。しかし、その澄み切ったスープの美しさに、佐橋はただごとではない迫力を感じた。震える手で一口ちぢれ麺をすすり、舌や喉に心地よい波を感じさせながらすべりおちていく、コシと香ばしさ、歯切れの良さに目を見開く。そのウェーブにからみつくスープの爽やかさと香り高さ。そして、飲み込んだ後に押し寄せてくる、一口目の印象とまるで違う攻撃性は一体なんだろう。
「なんでそこまでやるかって? あなたに勝手に名付けられた自分を取り戻すためですよ。自分たちの手で」
春はいつの間にか向かいに座り、夢中で麺をすする、父親より年上かもしれない佐橋を見据えている。一見、丸い味わいの先の方に、ゴリッとした荒々しさがある。この味の正体は――。佐橋はこれまでのラーメン人生を振り返った。あらゆる経験、言葉、知識を総動員しながら、薄さに反して十分な肉汁とかみごたえを感じさせる、とろけるようなチャーシューを堪能する。
「あたしは、ばか親に育てられたかわいそうな赤ん坊じゃない。それに、ママはばか親じゃない。恵さんの体は恵さんのものだし、店長は誰のおふくろでもない。替え玉さんと朝陽さんがどこでどんなふうに仲良くしようが、美香さんの性別がなんであろうが、たとえ自分の中で答えが出なかろうが、あなたなんかにくだらない名前でなれなれしく呼ばれる筋合いはないんですけど!」
怒りに燃えて、こちらを睨みつける春を前に、佐橋は震えながら麺をすすり終え、再び、スープに向き合った。もう一度じっくりと味わった後で、柄本希に向かって問うた。
「一つだけ質問させてくれ、頼む。味の決め手は、最後に足した追いガツオ、おそらく薄くスライスした……違うか」
柄本希はしばらくこちらを見た後で、ゆっくりとタオルで手を拭きながら、カウンターの外に姿を現した。こうしてみると、思ったより小柄で肩幅も狭い。なにより、四十五歳の自分と年がそう変わらないことに、佐橋ははっとした。
「正解。最後に魚介スープに大量に足しているのは、ふわふわの花ガツオ。家庭で食べるような。春ちゃんが小学校に入ったばかりの頃、私の家に遊びに来た時食べていた、ねこまんまがヒントになった。それが調和のとれた淡麗に、中毒性を足している。ベースの本枯節だけじゃこの味にならない」
「それで後味に、最後の油っぽさと荒々しさがブーストされたってわけか……」
佐橋はため息混じりにつぶやき、残ったスープを眺めた。
「優しさだけじゃ、全方位にはなれない。強い気持ちがどこかに見え隠れしないと。単調になるんだよ、なにごとも、な」
替え玉太郎の口調がふと、親しげになった。原田萌実までがこちらに言い含めるように目を細める。
「本当はどんなに頑張っても完全な全方位なんて、無理なんです。でも、自分ができる範囲で、取りこぼす層を少しでも減らしたいという気持ちは絶対に、どんな仕事にも必要。全方位型って言葉を私が好んで使うのは、それを忘れちゃいけないって気持ちがあるからなんです。あなただってそうなんですよね。きっとお母さんや子ども時代にすごく愛着があるから、ああいう言葉を選ぶんですよね」
カウンター席に座った柄本希が、タバコに火を点けた。ここ禁煙ではないか、と言おうとしてやめた。おそらく、十二年三ヶ月ぶりの一本を、希は実に美味そうに吸った。吐き出した煙がゆっくりと舞い上がり、片山朝陽が考え抜いた、天井にスマートに隠された換気口に吸い込まれていく。
おふくろ、部活、愛情、ノスタルジー、癒し。
小さい頃は友達もいなかった。部活に入っていたことは一度もない。幼い頃、母はなんでもいうことを聞いてくれたし、成人してからもライター一本で食べられるようになるまでは欠かさず仕送りしてくれた。佐橋が出たテレビはいつも録画して、近所に自慢して回っていた。にもかかわらず、母が亡くなった時、佐橋はあまり悲しいと思わなかった。その顔ももう、ぼんやりとしか思い出せない。こうしている今も記憶はどんどん薄れていく。母が最初に倒れた時、ずっと海外で働いていた妹は慌てて夫とともに帰国し、病院に泊まり込んで看病した。そして、
――お父さんとお兄ちゃんはママをお手伝いさんくらいにしかいつも思っていなかったじゃん。だから、ずっと体調が悪いことにも気づかなかったんだよ。
と、なじった。
どの言葉も使用不可となった今、佐橋は「うまい」と言うのを必死で堪えている。
「追い花ガツオに気付いたなんて、あなたにも、まあまあいいところがあるんだね。そういえば、母はあなたのこと、嫌ってはいなかった」
と思いがけず、懐かしそうな口調で柄本希が言った。スープで胃が温かいのに、七人がこちらを見るのをやめた今、佐橋の背中はいっそう冷たかった。もはや彼らは気が済んだのか、佐橋から完全に興味をなくしたようで、和気藹々としゃべりながら、中華そばの替え玉だの餃子だのを注文している。
柄本希はタバコを空き瓶にねじ込むと、厨房へと戻っていった。
「うまい」で身体がいっぱいだった。大学生の頃、初めて池袋でつけ麺を食べた時のように、身体中の細胞という細胞が喜びで満ちていた。スープを夢中で飲みながらも、丼を置くのが、佐橋は怖かった。この店を一歩出てからが、本当の地獄なのかもしれない。
一見、澄み渡っているが、こうして顔を近づけてみると、スープには無数の小さな輪が輝いている。その一つ一つに、幼い頃よく、お母さんにそっくりだね、と言われた、自分の泣き顔が映っている。
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