子連れの母親を「授乳始めるんじゃないか」と揶揄…炎上したラーメン評論家を待ち受ける驚きの復讐劇 柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』試し読み

試し読み

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

 二年以上経つが、アキはあの日から絶対にラーメン屋に行かないようにしている。写真がネットで拡散されて半年後、夫と別れた。

 二人が勤務していたのは京橋の小さな冷凍食品メーカーで、保守的な職場ながらも、育休をとっている男性社員はいくらでもいた。しかし、夫は「夫婦そろって育休なんて、タイミングずらしたとしても、顰蹙だろ」と言って、それをしなかった。アキの産休が終わって本格的に共働きとなっても、夫は相変わらず飲み会皆勤賞で、一向にワンオペ育児は終わらなかった。でも、離婚の決定打は、

――盗撮した方もよくないけど、お前も悪いだろ、小さな子連れでラーメン屋いくなんて、それは叩かれて当然なんじゃないの?

 という一言だった。部署は違えど、小さな会社なので、別れてからもしょっちゅう顔をあわせることになった。気まずさに耐えかねて、アキは退職した。両親が、わがままだ、孫の春(はる)がかわいそうだ、と激怒したせいで、もともと実家とは疎遠気味だったが、現在はほぼ絶縁状態にある。

 ラーメンを子連れで食べたことで全部失うなんて、自分の身に起きたことが未だにアキは信じられない。今は田園都市線沿いにアパートを借り、派遣社員として必死に働きながら、一人で春を育てている。ネット上でもっとも有名な赤ちゃんだった春も、とうに自分でスプーンとフォークを使えるようになっている。少し前までは、街を歩いていても、誰かに見られている気がして仕方がなかったし、実際「あの、ラーメンおばさんと赤ちゃんじゃん?」と学生服を着た連中にスマホを向けられたこともあった。

 最近、ようやく仕事相手の目をみて話せるようになった。

 元の会社で広報を務めていた同期の早希(さき)がいなかったら、自分はどうなっていたかわからない。彼女が「アキが書く新商品アンケートって、うちの部署で評判良かったんだよね」と言い、普段はプロに外注している社内パンフレット用の新商品紹介記事の仕事を振ってくれたのが始まりだ。元いた会社からお金をもらうのは気がひけると言ったら「じゃ、ペンネームにしなよ」と提案してくれた。それをきっかけに、他媒体からも小さなライター仕事がちらほらと舞い込むようになった。いつしか、育児サイトとグルメサイト、二つに連載を持つようになった。微々たる原稿料だが、手取り十五万円の二人暮らしには貴重な収入源になった。

 三宿にある無認可保育園で春を引き取った帰り道、偶然目に入ったのは「中華そば のぞみ」のくたびれた暖簾だった。この店の存在を知ったのは、悔しいが、ラーメン武士のブログがきっかけだった。自分より悪く言われている人を探して心の慰めにしようとしたら、この店の記事を読んでしまい、かえって痛みが倍増したのだった。

『おばさん店長の爪が今にも割れそう、食欲が激減するほどの、ささくれとひび割れ。皮膚や爪のかけらがスープに入っているんじゃないの?』

 読むに堪えない食欲をなくす言葉のオンパレード。そこにはただの批評ではない、徹底的に「のぞみ」の店長をこの世界から排斥したいという欲求が感じられた。他人事とは思えなかった。というのも、ラーメン武士が批判していたのは「のぞみ」の味ではない。アキ同様、槍玉にあげられていたのは、その「おふくろらしくなさ」だった。

 気付くと、春の手を引いて暖簾をくぐっていた。使い込まれた濃い色の木目調の店内は隅々まで清められ、澄んだカツオと鶏のスープの香りが漂っている。最後に食べたあの札幌みそラーメンの人気店とは何もかも違っていて、ほっとした。ラーメン武士のブログにこの店の評が出たのは随分昔だが、もしかして、今なお影響しているのかもしれない。夕食時なのに、店内に客の姿はなかった。

「いらっしゃいませ」

 そう言うなり、女主人はこちらをまじまじと見た。そして、一瞬、なんとも言えない表情になった。女主人はもう十分に理解したようだ。同じだ。この人もラーメン武士のブログを全て読んで、自分より悲惨な人を探して、かえって傷ついたクチ。似た者同士。アキはぎこちなく微笑み、券売機で中華そばとライスのボタンを押した。春にラーメンを食べさせたことはまだないが、白米ならこの子はそれだけでいくらでも食べる。プラスチックの子ども用のスプーンとフォークはいつも持ち歩いていた。

「子連れ、大丈夫でしょうか」

 そう尋ねると、女主人は「もちろんですよ」と頷き、カウンター越しに食券を受け取った。

 女主人が子ども用の椅子を運んできてくれたので、カウンター席に春と並んで座ることができた。あの日以来、初めての娘との外食だった。

 春は厨房の巨大な鍋のぐらぐら煮立つ湯や丸ごとの鶏を眺められるのが嬉しくて仕方がないようで、鼻歌を歌っている。やがて現れた、澄んだスープの中華そば、ライスの横にはサービスなのか、チャーシューと煮卵を細かく刻んだ小皿が添えられている。それを差し出す両手は、浅黒く大きく、皮膚のあちこちが割れ、皺が深かった。

「ラーメン屋さんってだいたい、みんな手荒れしているのに、ね」

 こちらの気持ちに先回りするように、柄本希さんはそう言った。アキは思わずこう返した。

「指先がふっくらつやつやで、マニキュアをしたらしたで、叩くくせに、ね」

 ラーメンの湯気越しに、目が合った。おそらくは一回り年上で、アキよりずっと厳しい自営業の人生を歩んできた人。でも、その目はアキの苦しさを知っていた。ずっと誰かとあの話をしたかった。友達も保育園のママ友も、早希でさえも、腫れ物に触るようにあの画像の話を避けている。

 チャーシューと煮卵をたっぷりのせたライスを頬張るなり、おいしい、と春は笑った。それを見ていたら、アキは泣き出してしまった。春に絶対に気づかれないように、声を殺して、慌てて下を向く。すると柄本さんがカウンターからこちらに出てきた。店の外に姿を消すと、暖簾を持って戻って来る。今日はもう閉店、とつぶやき、一つ離れた席に座り、こちらにそっとおしぼりを差し出した。

「ゆっくりしていってください。うちのラーメンのスープは子どもでも飲めますよ。無化調……、あ、化学調味料は使っていないですし、塩分は控えめです」

 二年ぶりに食べるラーメンは、身体全体にすっと染み渡っていった。あの日、周囲の目を気にしながら夢中でかきこんだこってり味も美味しいことは美味しいが、こちらはずっと滋味深く、身体の部分部分が生き返っていくような気持ちがする。これを言葉にできたらいいのにな、と思った。

「美味しい……。このスープ、透き通っているのにパンチがある」

 縮れ麺を夢中ですすると、アキはれんげでじっくりスープを味わった。柄本さんは静かに言った。

「いや、私はまだまだ。母のラーメンにはかなわない。すごく考え抜かれた無駄がない仕事をする人で、最後の一滴まで飲めるクリアなスープなのに、あっさりだけじゃなくて、味に迫力があった。かっこいい、尊敬に値する職人でした」

 柄本さんが小さなプラスチックカップを出してくれたので、アキはそこに麺とスープを少しだけ取り分ける。春はしばらくじっと見つめていたが、やがて躊躇なく、麺をすすり始めた。

「だから、母が男の客たちに『お母さん』とか『おふくろ』って呼ばれるのを見るのが、すごく嫌でした。母は私の母で、あんたたちのお母さんじゃないって、小さい頃からずっと思っていた。ちゃんと職人として評価しろよって悔しかった」

 ラーメン武士にとって女の優しさは「おふくろ」でしかないのだろう。でも、柄本さんのざっくりとした優しさが、今のアキには滲みていく。

 その夜はずっと身体がぽかぽか温かく、いつもは不安が襲ってきてなかなか寝付けないのに、春を寝かしつけると同時にふんわりと眠りにつくことができた。翌日ふと思いついて、連載を持つ育児情報サイトに「ラーメン、最後にいついった? 子連れにも入りやすい、『中華そば のぞみ』」という記事をアップしてみた。

 三回目に店を訪れたら「アキさんの記事のおかげで、子連れのお客さんが増えた気がする」と柄本さんがわざわざ嬉しそうに教えてくれた。

「ラーメン屋ってなんか怖いと思われがちなの、なんでなんだろうかって、ずっと考えていたんですが」

 その夜、カウンターに若い女性二人と、男性一人客だけになったのを見計らって、アキは柄本さんに声をかけた。隣では、すっかり外食に慣れた春が、小盛りの中華そばをプラスチックフォークですすっている。

「ラーメンってなんだか、すごく男のものなんですよね。我々は異物だから叩かれたのかもしれません」

 あの日の自分は、一刻も早く、周囲に迷惑をかけないように食べ終えねば、と怯えていた。そのせいで、すごい形相で掃除機のように麺を吸い上げていた。そのことが今なお、ネットで揶揄されている。こんなひどい顔で乳児を押しつぶすように抱えながら、ラーメンを食べなくてもいいじゃないか、と誰もが言う。あまりにも批判を見てきたせいで、アキまでそう思うようになっていた。

 あの頃は毎日、朝から晩まで、春と二人きりだった。たった一人で緊張しながら育児をし、自分の料理しか食べていないと、外食が恋しくて仕方がなくなる。誰かが作った、あつあつでパンチのある、高カロリーのエネルギッシュな、味に間違いない一品。どうしても美味しいラーメンを食べたくて、授乳の合間を見計らって、近所の行列ができる店に飛び込んだ。それがそんなにいけないことだったのだろうか。

「煮干しに昆布、干し椎茸、かつおぶし、干し貝柱。丸鶏にネギ、しょうが、卵に小麦、かんすい」

 柄本さんが呪文のようにつぶやき、アキは首を傾げた。

「うちの中華そばの素材。まあ、アレルギーの問題はあるけれど、全部、子どもでも食べられるものでできている。ラーメンって、みんなに開かれたものなのに、いつの間にか、難しいジャンルになってしまいましたよね」

 そう言って彼女は、ラーメンをすする春を見守った。澄んだスープを喉を見せて飲み干し、春は満足そうに、ほう、と息を一つついた。

 その時だった。先ほどからずっとこっちをちらちら見ていた、若い女性たちが立ち上がり、やってきた。どちらもボーイッシュでぶかぶかしたパーカー姿で、姉妹かもしれない。

「あのう、もしかして、赤ちゃん連れ写真をさらされた人ですか?」

 アキが咄嗟に春を抱き上げて店を立ち去ろうとすると、体格の良い一人が慌てて立ちふさがった。

「ごめんなさい。ごめんなさい。待って!」

「私たちも同じなんです。ラーメン武士にさらされて、すごい有名になっちゃって」

 二人は必死の顔で口々に言う。そういえば、どちらの顔にも見覚えがあるような気がした。一人は佐渡恵、もう一人は赤山美香とそれぞれ名乗った。

「おふくろ、部活、愛情、ノスタルジー、癒し」

 離れた場所に座っている、ラーメンのキャラクターが描かれたTシャツをムチムチした身体に貼り付かせた若い男性が突然、こう唱えた。

「ラーメン武士が、オーソドックス系中華そばを褒める時の語彙はこの五つの使い回し。うまいしか言えない評論はダメだとかくさすくせに、あいつだっていつも同じこと繰り返してるよね?」

 恵と名乗る人が、彼をしばらく怪訝そうに見つめていたが、あっと声をあげた。

「もしかして、そのキャラT、替え玉太郎さんですか? いつもラーメン情報、楽しみにしているんです。今日、ここにきたのも、替え玉さんのつぶやきがきっかけで」

 と、目を輝かせている。ネットでラーメンについて書いている男。そう思ったら急に怖くなって、アキは春を胸に引き寄せ、顔を伏せた。そんな様子に、恵さんはすぐに気付いたらしい。

「あ、安心してください。ウチら、Twitterで相互フォローの関係で。替え玉さん、ラーメン詳しいけど、おじさんラーメン愛好家とかとは全然、違うんで。説教とかうんちくとかないし」

「そうですよ。それに、俺だって、ラーメン武士にさらされた人間でもあるんで。俺ら、仲間っすよ」

 恐る恐る顔を上げると、替え玉太郎という男は「これ、美大の卒業制作で作った、替え玉太郎公式グッズ! 君にあげるよ」と言いながら、彼のTシャツにプリントされたキャラクターそっくりのぬいぐるみをリュックサックから取り出し、春に渡した。春はたちまち打ち解けた顔で、きゃっきゃとはしゃいだ声をあげ、ぬいぐるみを抱きしめている。

 その時、木枠の引き戸が横に開き、顔色の悪い痩せた青年がふらりと姿を現した。

「あ、朝陽さん、来てくれたんだ」

 と、替え玉太郎は、何故か顔を赤くし、早口で声をかけた。

「俺の、前の職場のせんぱ……、じゃなくて友達です」

「違う。僕、この人の彼氏です」

 その朝陽さんという男性は、彼の言葉にかぶせるように真顔で言い直した。胡椒が舞っているわけでもないのに、替え玉太郎は激しくむせた。そして泣きそうな顔で彼の肩を抱き、隣の席に引き寄せた。

柚木麻子
1981年東京生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。ほかの作品に『私にふさわしいホテル』『ランチのアッコちゃん』『伊藤くん A to E』『本屋さんのダイアナ』『マジカルグランマ』『BUTTER』『らんたん』『ついでにジェントルメン』『オール・ノット』などがある。

※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク