子連れの母親を「授乳始めるんじゃないか」と揶揄…炎上したラーメン評論家を待ち受ける驚きの復讐劇 柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』試し読み

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 美大卒業後に入社した、大井町線沿線にある有名な建築事務所をたった二年半でやめた理由を、片山朝陽は、長野県で暮らす母親と祖母にまだちゃんと話していない。薄々は気づいているだろうが、二人にはゲイであることは告げていなかったし、「ネットを見て」と言ったら、父亡き後、近所のホテルでフロント係として働きながら、農園を手伝う祖母と二人三脚で子育てしてきた母は、息子に寄せられた罵詈雑言や揶揄を読んでしまい、深く傷つくことになる。

 アパートに引きこもり二週間が経つ。事務所のすぐ傍という理由で借りた部屋のため、元同僚とどこで出会うかわからない。もはやスーパーやコンビニに行くことさえ、怖かった。健人(けんと)から

「なんか食べてます?」とメッセージが届いた時は、ありがたくて、夢中で欲しいものを打ち返した。今、まともに目を見て話せるのは世界中で彼だけだ。

――あのよく食べるバイトくんと片山くんって、付き合っていたんだね。

 クライアントの自由が丘のバーの店長になんの悪気もなく、そう言われた時、何が起きたのかわからなかった。世界中で自分をゲイだと知っているのは健人だけのはずだった。一瞬、彼が裏切ったのかと思った。

 その店長が教えてくれた有名なラーメンブログには、隠し撮りされた朝陽と健人の写真が添えられていた。あれを初めて目にした時の、高層ビルのエレベーターに足を踏み入れた瞬間、そこに床がなかったような衝撃と、どこまでも続く落下の恐怖は、今なお夢に見る。

 健人がアルバイトとして事務所に現れた去年の春から、ずっと気になっていた。朝陽が通っていた美大の後輩で、共通の知り合いも多い。つやつやした色白の肌で肉付きがよくて、誰からも好かれていた。なにより、ドーナツであれ、海苔巻きであれ、どんな差し入れでも美味しそうに頬張る様子に視線が吸い寄せられた。女性だけの飲み会にも屈託なく出入りし、そこで彼が自分は男性が好きだとあっさり認めたせいで周囲の視線が微妙に変化したが、健人は別に気にする様子もなかった。

 それでも、下っ端であれ正社員という立場上、年下のアルバイトに気持ちを打ち明けるのは気が引けた。だから、彼が卒業制作のために職場を去る日を待って、勇気を振り絞って食事に誘った。健人は、え、マジで嬉しいんですけど、と目を輝かせた。

――じゃあ、俺が行きたい店でもいいですか。環八沿いにめちゃくちゃうまいって評判の二郎インスパイア系ラーメン屋があって。いつもすごい行列なんで、一緒に並んでくれる人がいたらいいなって思ってたんすよね。

 排気ガスまみれの三十分の行列の間に、健人が自分の生い立ちをぺらぺらしゃべるので、朝陽もつられて、初めて他人にこれまでの人生の話をした。小さい頃は食が細くて野菜が嫌いで、祖母の手を焼かせたこと、好きな映画監督は伊丹十三とスパイク・リーだと言ったら、俺も! と健人は飛びはねた。健人が「スーパーの女」の津川雅彦の真似があまりにも上手いものだから、涙が出るまで大笑いした。間違いなく、これまでの人生で一番面白くて、リラックスした三十分だった。

 だから、柄にもなくはしゃいでしまった。健人がごく自然に「あの、嫌だったらいいんすけど、手つないでもいいっすか」とささやいた時も、どきどきしながら指先をからめた。コの字型のカウンターに並んで座り、食券を同時に出す。けっこう注文めんどいんで、俺に任せてくれますか、と健人は言い、朝陽は彼のカスタマイズに聞き惚れた。背脂やにんにく、麺、野菜の量を、いちいち朝陽にこれでいいかと確認しながら、店長に伝えていく。初めて一緒に外食するのに、健人は、朝陽の食べる量や好みを正確に言い当てていた。彼も自分をずっと見ていたのか、と思ったら、泣きそうになった。その時、ふいに、健人の表情がみるみる険しくなった。

――おい、てめえ、勝手に撮ってんじゃねえよ。警察呼ぶぞ、コラ。

 湯気の向こうの、厨房を挟んで座る、太った男を健人はどなりつけた。一瞬、店内が静まり返った。その薄汚い印象の男はこちらにずっとスマホを向けていたようだ。彼は健人の剣幕に押されたのか、そそくさと店を後にした。まもなく二人のラーメンは到着したが、朝陽が青ざめているのを見て取ったせいか、健人は店長に謝り、丼には手をつけずに店を出た。

――また、リベンジしましょうよ。今度は朝陽さんが休みの前の日にしましょ。それなら、にんにくマシマシできますしね?

 と健人が締めくくってくれたおかげで、明るい気分でその日は別れることができた。もしかして、ああ見えて昔やんちゃだったりするのかな? そう思うと、ひどい目に遭ったばかりなのに、彼に対しての興味が倍増して、何も食べていないにも拘わらず、ずっと体の奥が熱かった。

 でも、そんな風にときめいて暮らしていられたのは、二人の画像がネットで拡散される前、わずか数日の間だけだった。

 ラーメン屋にふさわしくない、注文に異様に時間がかかり、周りに迷惑をかける、過剰にベタベタした同性愛者のカップル、というような悪意ある文章を読み、朝陽はベッドから起き上がれなくなった。職場にはもう二度と行けないと思った。朝陽と健人の仲睦まじい雰囲気が可愛い、という擁護のコメントにも、まるで珍しいペット扱いしているような気配を感じ、かえって傷ついた。声がうまく出ないし、胃が焼けるように痛くて、水しか口にできない。

 メッセージが届いてから三十分後、何日も掃除もしていない部屋に、健人はいつもの雰囲気のままで、スーパーの袋を両手に現れた。本当ならもっと片付いた状態で、祖母から送られてきた蕎麦でもゆでてもてなしたかったのに。窓開けますね、おかゆなら食えますか、台所借りていいすか、とぽんぽん声をかけ、鍋やフライパン、冷蔵庫の中身を見て回りながら、健人は何気なくこう続けた。

「どうします。訴訟する?」

「やめとく。これ以上、自分の属性だけで、注目されたくない」

 そっか、と健人はつぶやき、ベッドのそばまでやってきて、体育座りをして、こちらの顔を覗き込んだ。

「ごめん。僕が食事に誘ったせいで……」

 朝陽が小さな声で謝ると、あっけらかんとした口調で彼は言った。

「いやいや、謝るのはこっち。だって、ラーメンを提案したのは俺っしょ。あんなもん、俺、別に気にしてないっす。俺の地元、あ、ここから電車で通える神奈川の僻地だけど、めっちゃ荒れてたから、昔から男と歩いているだけで、めちゃくちゃ叩かれて、ああいうの慣れてたし。勝手に言ってろよって感じ」

 こちらの顔つきを別の意味ととったらしく、健人は急におだやかな表情になった。

「でも、そんなスタンス、人それぞれじゃん? 朝陽さんが傷ついたのなら、それは許せないですよ。こうやって、時々会えたら、嬉しいっす。おうちデートだっていいじゃないですか」

 彼はしばらく迷った後で、こちらにスマホを差し出した。

「慰めにならないけど、ラーメン武士のせいで、俺らより、ひどい目に遭ってる人、まだまだたくさんいる。この親子とか、やばくね? この子、まだ赤ん坊じゃん」

 それは、この一件でラーメン武士のブログをちゃんと読む前から、すでにネット上では有名だった画像と文章だった。朝陽と健人の比ではないほど拡散されている。悪質なコラ画像も多数作られていて、もはやネット民の定番のおもちゃだった。でも、この画像を初めて見た時、朝陽は別に同情を感じなかったのだ。むしろ、何でこんな、子どもが小さな大変な時に、わざわざ無理に外食するんだよ、と苦笑し、ネタとして受け止めていた。男ばかりのラーメン屋のカウンターに窮屈そうに座り、片手で赤ちゃんを抱え、必死の形相で麺をかきこむ母親の隠し撮り画像。すっぴんで髪はほつれ、寝巻きのような服には汚いシミがいくつもついている。

 どうして笑ったりしたんだろう。幼い頃、朝陽が見上げた母の姿にこんなにもよく似ているのに。

『今にも授乳始めるんじゃないかって気が気じゃなかった。おっぱい見れたらラッキーではありますが、こんな顔のおばさんですしね~』

 かつては意地悪だなあ、くらいにしか思わなかったラーメン武士のコメントに、今の朝陽は吐き気を催す嫌悪感を覚えた。

「ラーメン武士のせいで、生活めちゃくちゃになったのは俺らだけじゃないよな」

 傍の健人は頬が触れ合うくらい近くにいる。

「なんか、急にラーメン食べたいかも……」

 彼の体温とにおいにほっとしたせいか、朝陽は気付くと、そうつぶやいていた。

柚木麻子
1981年東京生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。ほかの作品に『私にふさわしいホテル』『ランチのアッコちゃん』『伊藤くん A to E』『本屋さんのダイアナ』『マジカルグランマ』『BUTTER』『らんたん』『ついでにジェントルメン』『オール・ノット』などがある。

※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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