子連れの母親を「授乳始めるんじゃないか」と揶揄…炎上したラーメン評論家を待ち受ける驚きの復讐劇 柚木麻子『あいにくあんたのためじゃない』試し読み

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 赤山美香(あかやまみか)が高校卒業後、池袋駅西口から歩いて五分の豚骨ラーメンの有名店で働いていたのは、二〇一〇年頃。まだXジェンダーという言葉を、自分も周囲も知らなかった。あの頃はバイトの履歴書の性別欄はとりあえず女に丸をつけていたものの、本心ではどうしてもしっくりこなくて、自分は悪くないにもかかわらず、いつも雇い主や同僚を騙しているような気持ちになった。

 中学一年の頃から女子の制服を着ると落ちつかなかった。どちらかというと男子の制服の方が落ち着くようには思うが、それが本当に着たいかというと違う気もする。とても消極的な、スカートよりかは、という感じだった。学生時代はもちろん現在もなお、誰かに恋することはない。でも、その分、やるべきことに集中できたと思う。責任感が強く、はしゃぐタイプではないがどんな行事もひとしれず楽しむタイプの美香は、男女問わず信頼され、総じて充実した学生時代だった。

 両親は若く、裕福とは言えない団地暮らしだったけど、妹ともども愛されて育った。美香という名前はいかにも女の子だが、母親から名前に込めた気持ちを妹と一緒に聞いてから、気に入っている。髪が短くがっしり体型で、小さいブラジャーで胸をぎゅっと押さえつけていたため、よく男だと思われたが、それを揶揄してくるのは話したこともない連中ばかりなので、気にならなかった。

 背が高く手足も長く、体力に恵まれた美香は女子サッカー部の活動に夢中だった。ただ、仲間たちと同じ性別か、と問われれば自信がないので、トイレや更衣室はなるべくみんなが居ない時を狙って、使うようにしていた。コーチには推薦で体育大学に進むように言われたが、本格的にスポーツに打ち込むようになれば、きっと性別は常に明らかにしなければならなくなるだろう、とその時は判断した。

 だから高校卒業後は、将来の仕事に結びつけば、と西武池袋線で都内に通い、あらゆるバイトを経験した。どこでも重宝されたが結局、裏方のコツコツした仕事は体を存分に動かしたい性分に合わなかった。接客だとウェイトレスだったりウェイターだったりと性別に準じた役割を求められることが多く、居心地が悪くなる。職場を一つ去るたびに、自分に向いている場所の輪郭がだんだんと浮かび上がるようになった。

――なるべく忙しいところ。従業員の人数が少ないところ。制服はブカブカの作務衣。力仕事が必要なところ。明確な更衣室はなくてトイレは一つのところ。つまり、カウンターだけの坪数が少ない人気ラーメン店がベスト。

 美香は妹にそう語った。妹にだけは昔から自分の違和感を打ち明けることが出来た。妹は美香にわかりやすさを求めず、まとまらない話をただ、うんうんと聞いてくれる。

 なにより、美香は小さい頃からラーメンが大好きだった。いわゆる名店の味をその時はまだ知らなかったが、家族で週末に出かけるフードコートで食べる、こってりした豚骨スープとガシガシ硬い細麺、それに水気少なめのご飯を添えて食べるのが好物だった。

 実際、豚骨醤油ラーメンの硬派系名店「めん屋 足穂(たるほ)」にひっきりなしにやってくる男性客たちは、美香に見向きもしなかった。ほとんどが一人でやってきてこちらと目を合わさずに食券を差し出し、山吹色のクリーミーなスープから硬い細麺を競うようにすくい上げ、丼を抱えて飲み干すなり、一言も発さずさっさと店を立ち去る。接客は好きだが、仕事とまったく関係ない話をされると、いつも何も言えなくなってしまうので、それも助かった。

 客たちにある一定のリズムと秩序があるのは、店長の荘厳なオーラのおかげだと美香は思っている。六十代の男性店長・森(もり)さんは決して従業員を怒鳴ったり、こうあれ、と示すことはないが、素早く無駄のない動きを求めた。それは厳しいというより、彼の納得するクオリティの一杯を注文から三分以内で客に出すためだ、と美香はすぐに気付いた。ピーク時はあまりにも忙しいので、美香よりずっと年上の店員たちが何度も注文を取り間違え、店長の無言の一瞥に耐え切れず、次次に辞めていった。

 そんなわけで働き始めてすぐに、美香が一番の古株となった。店長の言葉の少なさが、美香にはむしろ心地よかった。「足穂」ではただの赤山美香でいられた。なにより、まかないのチャーシュー温玉丼や餃子はもちろん、ラーメンが楽しみで仕方ない。フードコートの味とは根本からして違う。ただのこってりで終わらない、丁寧に重なっている野菜や煮干しの香りが爽やかでさえあり、極限まで硬い麺も、攻撃的というより、香ばしくて歯切れがよく、どこを切り取っても飽きるということがないのだった。

 ある日の昼休憩、

「スープの仕込み、明日から手伝えるか?」

 と店長に短く告げられた。美香は大きくうなずいた。そのせいで、柄にもなく、接客中に口元をにまにまさせていたために、あの男に目をつけられてしまったのだ。食券を受け取った時から、あの男の態度にはどこか妙なところがあった。

「ねえ、君、男なの? 女なの?」

 カウンター越しにラーメン丼を置いた時、唐突にそう問われた。適当にあしらえなかったのは、なんでなんだろう。不意打ちをくらい、美香は硬直してしまった。

「男なの? 女なの? ねえ、どっちなの? いや、どっちにも見えるんだけど?」

 男はごく気軽な調子を装ってはいるが、しつこく食い下がった。何か言わなければ。たった今、大勢の男が見ている前で、美香は、自分のあいまいさを明快に説明しなければならなくなった。妹にだってとりとめのない調子でしか話せないのに。どうしよう、言葉が口からでてこない。常連たちまでが、ちらちらと自分の胸のあたりを見ている。頭が真っ白になった。普段は食欲を刺激してくる、豚骨の強い匂いで立ちくらみしそうになる。

「どっちか、ちゃんと教えてくれないとさ、味に集中できないんだよねー? みんなもそうじゃないの? 気になる人もいるんじゃないの?」

「お客さん、悪いけど、店員に絡むのはやめてくんないかな? お代は返すから、出て行ってくれ」

 店長がぴしゃりと遮ってくれたおかげで、他の客たちも、ようやくいつもの、何が起きても食事最優先の軍隊のようなトーンを取り戻した。店中から冷たい視線を浴び、男は急にへらへらし始めて去って行った。

 しかし、後日、その男は有名なブロガー「ラーメン武士」だと判明する。最新の記事では「足穂」の暴力的な威圧系接客にドン引き、ハードボイルドは味だけにしろ、と店長がおもしろおかしくこき下ろされていた。それだけではなく美香を隠し撮りした写真まで貼られていた。そこに添えられた言葉は、性別を明らかにしない美香は、ずるくて卑怯で、人を不安にさせる存在だと糾弾するものだった。

 それからしばらくして、美香は自ら店をやめた。店長は不器用な熱心さで引き止めてくれたけど、彼にも迷惑をかけてしまったし、もう働き続けられる気がしなかった。あれ以来、客たちが自分の身体や顔をじっと見ている気がしてならない。親も妹も何も言わなかったが、おそらくネット上で美香の写真が出回っていることをうすうす知っていたのだろうと思う。新しいバイトを探さなくても何も言わなかった。

 誰かに声をかけられ、また同じ質問をぶつけられそうで、しばらくは外出もできなかった。二ヶ月半してようやく、ぶかぶかのトレーナーにキャップを被り、日が落ちてからであれば、恐る恐る街に出られるようになった。その夜は、渋谷でレイトショーを観たら終電を逃してしまい、ネットカフェで始発まで時間を潰そうとしていた。すると、かつて大好きだった、フードコートに入っていた博多系豚骨チェーンのロゴが目に入った。森さんの作るような個性やキレはないけれど、リーチが広い、まろやかでシチューめいた甘味の強い白濁スープ。暖簾をくぐりながら、あんな目に遭ってもなお、ラーメンが好きだ、と自覚した。食券を買い、カウンターの隅にある、できるだけ目立たない席に腰を下ろす。

「あのう、ごめんなさい。隣、いいですか」

 自分と似たようなパーカー姿で、キャップからつるつるしたポニーテールを逃した、同い年くらいの子が立っていた。実を言うと、さっき入店した時から、ずっと視線を感じていたのだ。

「私、佐渡恵(さわたりめぐみ)っていいます」

 と、その人は唐突に名乗った。ここから歩いて数分の大学の三年生だと言い、怪しいものではない、と素早く学生証を見せてくれた。断りなく隣に座ると、美香と同じように、食券をカウンターに載せる。

「私、ネットであなたの画像を見ました」

 それを聞いて、すぐに逃げようとしたが、恵さんは閉まりかけの電車のドアに滑り込む勢いでまくしたてた。

「ねえ、誤解しないで。私も同じだから。ラーメン武士に勝手に写真、撮られたんです」

 その整った顔だちや目尻が優しげな大きな瞳をまじまじ見ているうちに、美香は恵さんが誰だかわかった。「日本一可愛い超巨乳ラーメン屋店員」として、ラーメン武士のブログで写真が紹介されていた人だ。ラーメン武士のブログなんて絶対読まないが、あまりにも話題になっていたため、ついうっかり見てしまった。正面からの顔だちを咄嗟に思い出せなかったのは、何故か胸の真下から、その張り出した高さを強調するように撮られていたせいだ。美香のものと同時に出されたラーメンを前に、恵さんは割り箸を割る。紅ショウガをどっさり入れながら、こう続けた。

「あれ、撮影に同意しているように見られちゃって、勘違い変態女とか、ネットですごい叩かれたんですよね。それだけじゃなく、ストーカーみたいなのが何人も店に詰め掛けた。店長に相談したら、お店にはいい宣伝になったし、君も外見を褒められたんだから、いいじゃないかって、笑って取り合ってくれなくて。だから、店はもうやめた」

 恵さんは唇をすぼめ、溶け出した紅ショウガでピンク色に染まったスープがからんだ麺をズズッとすすりあげた。

「あの写真、許可なく撮られたの?」

 美香も割り箸を割ったものの、さっと食欲が失せていく。

「うん、あいつさ、店員さん、ラーメンと一緒に写ってくださいよって声かけてきたの。ラーメンがメインの写真だと思って、うっかり愛想笑いしちゃったんだよね。好きだったんだ。私が働いていた、五反田の横浜家系ラーメン。あの日はさ、私が海苔をぐるっと丼に飾らせてもらった記念日だったんだよね」

 食べなよ、という風に恵さんに大きな瞳で促され、美香はようやく麺を少しだけ口にした。そうするとやはり、だんだんと食欲が戻ってくる。替え玉お願いします、と恵さんはごく普通の調子で、カウンターの中に向かって言った。

 本格的に麺をすすり始める前に、美香はどうしてもこれだけは吐き出しておきたかった。

「あのね。私、昔から、どっちの性別もピンとこないんだ。だから、性別が関係ない場所で働けたらいいなってずっと思ってた。それをまだ上手く説明できない」

 妹以外に、初めてこの話をした。こうしていても、カウンターの奥の店主やアルバイト、客の目が気になる。あの時と同じように、舌がもつれる。それでも、恵さんがまるで周囲からかばうように身を乗り出し、目の前の壁になってくれるおかげで、最後までなんとか話し終えることができた。

「当たり前だよ。そんなデリケートなこと、突然聞かれてすぐに応えられないでしょ。私みたいな初対面の人間なんかに話してくれて、どうもありがとう」

 恵さんも替え玉だけではなく、スープは残さず、ご飯も一緒に食べるタイプだった。そのせいか、美香も三ヶ月ぶりに替え玉を頼んで、餃子もライスも食べた。会計を終え、別れ際になって、恵さんはこう言った。

「私さ、ネットで騒ぎになってから、大学でも知らない人に話しかけられることが増えて、もうずっと行ってない。友達は心配してくれたけど、疎遠になっちゃった。あの、これから時々、ラーメン屋めぐりしませんか? 私の周り、あんまりラーメン好きな女子いなくて。あ、赤山さんが女子って決めつけてるわけじゃないよ」

「もちろんだよ。自分でよければ、いつでも連絡ちょうだいね」

 そして連絡先を交換した。恵さんからはその夜のうちに次の約束を取りつけるメッセージが来た。再会した時、恵さんはショートカットにして雰囲気をがらっと変えていた。新宿、原宿、渋谷で落ち合い、二人で気になるラーメン店に行き、その後は、スタバでゆっくりおしゃべりをする、そんな関係が続いた。高校時代、仲間は多かったが、集団での付き合いのため、こんな風に一対一で語り合える相手はいなかった。なにより、自分と同じくらいよく食べる恵さんと一緒にいるのは楽しかった。ショッピングに誘われることがないのもありがたい。昔から着たい服、身につけたいものが皆無で、自分なりの好みというものがよくわからないのだ。

「Twitterでラーメン好きだっていうと、変なのに絡まれるんだよねー」

 恵さんが、新宿の魚介ベースの塩ラーメン屋でぽつりと言った。この後、替え玉いくでしょ、と互いに確認しあった直後だった。はまぐりや魚のダシをベースにした、来るたびに微妙に味が変わるスープに、へしこのしょっぱいおにぎりが抜群に合う、美香のおすすめ店を恵さんが気に入ってくれて嬉しかった。

 Twitterが爆発的に流行るのは東日本大震災が起きてからで、美香は二〇一〇年当時その名前をかろうじて聞いたことがあるくらいだったが、あの頃、恵さんはすでに上手く使いこなしていた。恵さんはSNSが怖くないようだ。美香はあれ以来、ネットに近寄れない。ラーメン界隈の口コミ情報さえ見ることができず、雑誌や本、ラーメン屋で盗み聞きした愛好家たちの会話が貴重な情報源だった。

「彼氏の趣味でしょう、とかリプライくるの。なんで女がラーメン好きなのって許されないんだろうね」

「私の妹も同じようなこといってたな。ラーメン文化ってなんか面倒っていうか、怖いって」

 美香は「めん屋 足穂」のストイックな雰囲気が好きで、森さん含め今なお悪い印象はないが、妹はあの感じをおおいに苦手とし、姉に会いに店の前まで来てみても、怖がって入ることは一度もなかった。

「うんうん、下手にラーメンの話したら、変な愛好家に絡まれるんじゃないかって思われてるよね。麺やスープを残したら誰かに叱られそうだから、入れないって人の話も聞く」

「そういえば、有名なラーメン屋さんって男の人ばっかりで、店長も絶対に男、だしね」

「あ、待って。一人、知ってるかも。女の店長の店。フォローしてるラーメン愛好家さんが、勧めてくれた店なんだけど」

 恵さんはそう言ってスマホを取り出し、きらきらした目で見つめている。ラーメンを擬人化したような可愛いアイコンがちらりと窺えた。

「あ、ここでの替え玉やめて、これから二杯目行かない?」

柚木麻子
1981年東京生まれ。2008年「フォーゲットミー、ノットブルー」でオール讀物新人賞を受賞し、2010年に同作を含む『終点のあの子』でデビュー。2015年『ナイルパーチの女子会』で山本周五郎賞を受賞。ほかの作品に『私にふさわしいホテル』『ランチのアッコちゃん』『伊藤くん A to E』『本屋さんのダイアナ』『マジカルグランマ』『BUTTER』『らんたん』『ついでにジェントルメン』『オール・ノット』などがある。

※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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