この某ラーメン情報誌の紹介記事が某ニュースサイトに転載されてから十一時間が経つ。ここで批判されてるの佐橋(さはし)ラー油のことじゃね? というコメントが跡を絶たず、佐橋は何もしていないにもかかわらずプチ炎上し、再び「のぞみ」に向き合わざるを得なくなった。
Uber Eatsで頼んだ、下北沢にオープンしたばかりのマカロン餅ドーナツ専門店の看板メニューを三口だけ食べて、残りはゴミ箱にぶちまけ、ところどころに食べ染みのあるソファにごろりと寝そべった。年明けの人間ドックの結果を受け、最近では人目がないところに限り、取材で完食しないように心がけている。
マンションの真下を世田谷線が通過していく。世田谷ボロ市で通りは朝から爆発するように賑わっていて、屋台飯の匂いもぷんとここまで漂ってくる。
どうしても外に出ていきたい気持ちにはならなかった。
ラーメンの仕事が激減しているせいで、B級グルメや映画、スポーツ、ついにはスウィーツまで依頼があればなんでも書くようにしているが、佐橋はラーメン以外にほぼ知識がないため、次につながらなかった。四十五歳になる今、新しく始められる仕事もない。実家は練馬区にあるものの、帰りづらかった。妹夫婦が母亡きあと、父の介護を共働きの傍ら続けていて、大きな顔で威圧してくるせいだ。
これまで八冊本を出している。一時期はふくよかな体型に非モテ独身自虐キャラがマスコットみたいで可愛い、ともてはやされ、地上波でレギュラー番組を持ち、街でサインを求められることも多かった。SNSで自分のファンだと名乗る若い女性たちを見つけては、自らせっせとDMを送り、それをきっかけにして立て続けに交際もしていた。雲行きが怪しくなったのは、この「のぞみ」が頻繁にメディアで取り上げられるようになってからだ。
二年前、ミシュランの星獲得の報を聞き、お祝いついでに久しぶりに「のぞみ」を訪れたら、手首に豚のタトゥーが入った、うでっぷしの強そうなアスリート風の店員に「お引き取りください」とすごい目で追い返された。二度目もそうだった。理由はわからなかったが、デビュー当時から親しくしている愛好家の男たちのコミュニティでも、そういった追い払われ方をされている者がけっこう居て、自分だけじゃないんだ、とほっとした。排除された仲間たちとネット上で「のぞみ」批判を盛大に繰り広げ、むしろ結束は強まった。
最初「のぞみ」はラーメン評論家を店から締め出している、厳しい意見を恐れる腰抜け、男性差別、という批判の声が多かった。しかし、またたく間に、佐橋と仲間たちの過去ブログやTwitterでのやりとりが槍玉にあがるようになった。
当時は「ラーメン武士」の名で活動していたが、もう十年も前のことだ。情報誌の編集者とブロガー、二足のわらじだった頃の、毒が強めのブログは反省の意も込めて、最初の本が出るタイミングで削除している。ところが、魚拓をとっていた連中が得意満面にその内容を公開したため、いつの間にか、佐橋らは入店拒否されて当たり前という風向きに変わっていった。連載やテレビ、ラジオのレギュラーが次々に打ち切られた。「のぞみ」に追随する形で、門前払いをくわせる二郎系、家系の有名店が現れ始めた。その上、「のぞみ」ファンを公言する新参の評論家やYouTuberがその味わいを饒舌に語るようになり、ますます肩身は狭くなっていく。そうなると、面白いように人が離れていった。
やがて、仲間たちまで裏切り始めた。それぞれがTwitterやブログで、過去の「迷惑行為」を認める形で、謝罪したのだ。彼らを問い詰めたところ、謝罪文を出してすぐに、「のぞみ」から仕事関係者を通じてコンタクトがあったらしい。彼らは入店を許されるようになり、今ではすっかり「のぞみ」絶賛側に回っている。「ラー油さんも、意地はらずに早く謝っちゃえばいいのに」と、呆れた顔でさとされる始末だ。もはや「のぞみ」は絶対王政を築きつつあった。噂では、来年、アメリカNetflix制作の密着ドキュメンタリーが世界公開されるという。
世田谷線は今日、ボロ市のために臨時ダイヤで運行しているようだ。いつもと停車、発車の間隔が微妙に違う。正月以降ずっと家に引きこもってごろごろしているので、佐橋の身体はそうしたささいな変化に敏感になっていた。
SNSなんて関心ありません、という顔をして、「のぞみ」はしっかり、佐橋らの動向を見張っているし、ネットの時流を読むセンスも高いではないか? やれやれ、仕事そっちのけでSNSの人気とりにかまけてばかりいるなんて、職人としてはどうかと思いますよ? と、佐橋はスマホでもう一度、記事の最後に添えられた、にこりともしない、鶏ガラみたいに痩せた五十代の女の画像を見遣った。
化粧気のない乾いた浅黒い肌と目尻に刻まれた皺のせいで、年よりずっと老けて見える。すっかりばあさんだ。おまけに先代にはあった、包容力みたいなものが、とげとげしい目つきや、硬い口元には微塵もない。昔はまだすこしは見られる見た目だったのに――。
執念深さにぞっとさせられる。この女のラーメンを食べたのは今から約十五年前、その母親が亡くなったばかりの頃だった。そういえば、先代の時から、佐橋は「のぞみ」を割と買っていたのだ。当時はまだ注目している同業者は少なかったから、やはり自分には先見の明がある、とつくづく思う。「おしゃれタウンで愛される懐かし系おふくろ風味のほっこり中華そば」として何度かブログで取り上げただけではなく、「部活帰りに友達の家で、お母さんがチャチャッと作ってくれた醤油ラーメンを思わせる、愛情たっぷりの手作りの味。郷愁の味わいに毒舌ラーメン武士も涙がにじみそう」として長文で褒め称えたはずだ。
木目調のいなたい雰囲気の店内を一人で回す柄本希は、先代の良さをまるで受け継いでいなかった。接客はつっけんどん、笑顔はとぼしく、挨拶は小さい上、こちらの食欲が減退するほど、顔色が悪かった。ラーメンを差し出す手の指先は水気がなく、爪には干し貝柱のような今にも割れそうな筋が何本も入っていた。柄本希のためを思って、カウンター越しにそこを指摘した。ただし、麺もスープも個性はややとぼしいものの、すでに一定のレベルをクリアしてはいた。佐橋はブログで二代目「のぞみ」の悪い点を綴ったが、ちゃんと評価もしたはずだ。なのに、たったそれだけのことをまだ根にもっているのだ。最近の、批評に耐えきれない職人たちのメンタルの弱さには辟易する。
口の中に、まだマカロン餅ドーナツの脂っこさが残っている。
バッシングされるようになってから、ずっと胃が痛い。何を食べてもものの味がしない。あっさりした汁物なら喉を通りそうだが、自分で作る気はない。歴代の彼女たちを呼び出そうとしても、全員からブロックされていた。昔から、佐橋は台所には立たない主義だった。それは職人への敬意からだ。同業者の中には、自らラーメンを手作りする者がいるが、それは文芸評論家が小説を書く、映画評論家が自主映画を撮るようなものだと軽蔑している。記事に添えられた「のぞみ」看板商品である中華そばの写真に、気づけば見入っていた。
こんなスープなら、飲めるかもしれないな。
見れば見るほど、美しい、黄金色だった。ここまで澄ませるには、鶏ガラが鍋の中でほとんど動かないよう、つきっきりで見守っていなくてはならない。丸い味ながらも、奥行きが複雑で食べ飽きないともっぱらの評判だが、たくさんの素材をこんなに淡く、透明にまとめるとはどんな技術を持っているのだろう。とめどなく溢れ出る好奇心を慌てて打ち消す。
「のぞみ」の味を知らない、というのは現在、日本でラーメン愛好家の看板を掲げて活動する上で、致命傷といっていいハンデだった。そういえば、つい最近出たばかりの、替え玉太郎のラーメンガイドの表紙はよりにもよって、有名写真家の手による「のぞみ」の芸術品のような中華そばである。Amazonの新刊一覧で書影を見たとき、自分に対する当てつけではないか、と佐橋は憤った。
佐橋を批判するときにネット民が必ず引き合いに出して褒め称えるのが、この替え玉太郎である。このネット記事のコメント欄でさえ、その名がちらほら見受けられるほどだ。替え玉太郎はその名に似合わず、すらりとした薄い体型にすべすべの毛穴一つない白い肌、甘い顔立ちにぽきりと折れてしまいそうな細く長い首、髪と目は明るい茶色で、張りのある白いTシャツとブランドものの赤いキャップが目印の人気YouTuberだ。三十代ぐらいのはずだが、もっと若く見える。ラーメンをすする顔が女こどもに「かわいい」「おいしそう」と評判で、彼が紹介した店は翌日必ず満員になる。しかし、何を食べても「うまいッス!」とダブルピースをして顔をくしゃくしゃにして微笑むくらいしか表現手段を持たないので、佐橋やその仲間たちは彼を軽蔑している。だいたい、替え玉していない時もけっこうある。
うまいものを食べて「うまい」としか言えないような評論家は評論家とは呼べない。それはラーメン武士時代から、佐橋が繰り返し書いていることだ。言語化できない複雑な旨味や素人には気づかない美点をキャッチして文章にすることが、評論家の役目ではないか。そうやって廃れていきそうな、そうかと思うと大衆化しすぎてしまうラーメン文化を守り、つなぎ、そして新たなファン層を獲得していくこと。そのためには、時に憎まれ役を担うはめになったとしても構わない。それは佐橋の使命であり、人生の矜持だった。
佐橋はパソコンを立ち上げ、しばらくの間、さめざめと泣いた。涙が乾いた頃、ティッシュで鼻をかんだ。そして、noteを更新した旨をTwitterに投稿した。
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