「佐橋ラー油は、二〇〇三年から二〇一三年まで更新していた自身のブログ『辛口ぶった斬りラーメン武士が行く!』でラーメン店の店員さんやお客さんの写真を、本人に許可なく撮影し、コメント付きで勝手にアップしてしまったことを、この場を借りて、謝罪します。
アカウントはすでに削除し、今はもうそのブログは見られなくなっていますが、画像の多くは今もネットに出回っている、と知人に聞きました。傷つけてしまったみなさん、本当に、本当に申し訳ありません。
あの頃の僕はどうかしていました。勤めていた会社での人間関係もうまくいかず、失恋もして女性が怖くなっていて、心身が壊れかけていた。ラーメンだけが心の救いだった。
僕はあの頃、僕の愛するラーメン文化が廃れてしまうことが恐ろしくて仕方がなかった。コミュ障気味の少年だった僕は、大学一年生の時に、美味しいつけ麺に出会い、世界が変わりました。もっと美味しい麺を、もっと美味しいスープを求めて、食べ歩くうちに、仲間に出会いました。一人でも多くの人にラーメンの魅力を知って欲しくなりました。日本にしかない、この特殊な、大切な様式美を守り、継承していきたかった。そのためには自分が悪者になっても構わなかった。
それが評論家としての筋の通し方で、僕に出来るたった一つの正しい戦い方だった。その一心で、悪気なくやってしまったことです。
本当に、本当に、ごめんなさい」
十回以上は読み返したにもかかわらず、このnoteも、またもや炎上した。ラーメン愛好家仲間までまったく擁護してくれなかった。認めなければよかった、と目の前から光が消えていく。
一つでいいから佐橋ラー油擁護を見つけたくて、エゴサーチする手が止まらない。いつの間にか辺りは暗くなっていて、ボロ市の屋台は次々に解体されていく。結局、佐橋は丸二十四時間、ネットに張り付き続け、自分への罵詈雑言をただただ眺めるはめになった。
あの男から初めての連絡が届いたのは真夜中だった。いつもなら無視するところだが、今の佐橋にはたった一人の味方が、本当にありがたかった。
「替え玉太郎です。初めてDMします。つねづね佐橋ラー油さんの文章が好きで、ラー油さんの筋が通った主張は、ぼくの目標でもありました。謝罪note素晴らしかったです。すごく勇気がある発言だと思います。ぼく、『のぞみ』さんと親しいんですが、よければ、ご店主にこのnoteのこと伝えておきましょうか?」
「『のぞみ』さん、謝罪文、読まれたそうです。ラー油さんの気持ち、しかと受け止めたとのこと。これからはいつでもご来店ください、死んだ母も喜びます、だそうです。よかったですね。来店する日にちと時間を伝えてくれたら、必ず席を空けておくそうですよ。さしつかえなければ、ぼくもご一緒したいです、一度ご挨拶したいと思っていたし。いつ行きましょうか?」
それは佐橋にとって五日ぶりの外出であった。
閉店まで行列は途切れない、と例の記事にはあったが、佐橋がたどり着いた二十時半、三軒茶屋駅から割と歩く「のぞみ」は、意外なくらいに空いていた。入店するなり、例の豚のタトゥーを入れた強面の店員がつかつかとこちらにやってきた。咄嗟に殴られるかと身構えたが、佐橋の真横を通り過ぎ、すぐに「営業中」の看板を裏返し、暖簾を外したから、自分のために客の入りを制限しているのかもしれない。
外観や入り口の雰囲気は昔のままだが、一歩入るなり、しんと静かな質感に包まれた。建物全体が、すべすべした硯のような素材でできていて、照明の具合は落ち着いている。天井からアルミ製の笠付きランプがいくつも吊り下げられていて、客のもとに運ばれてきたラーメンや足元だけが照らし出される仕組みになっていた。これが流行りなんだろうが、なんか冷たい感じがする。古びた木目の店内が好きだっただけに、さっそく嫌な気持ちになった。メニューが絞られたせいか、以前はあった古い券売機まで消えていた。
カウンターの中で黒い作業着姿で働くのは店主の柄本希。こちらをちらっと見るなり、すぐに手元に視線を戻す。すでに明日の仕込みが始まっているのか、鶏ガラらしきものを出刃包丁でたたき切っている最中のようだ。てっきり、こちらまで来て握手を求めるくらいのことはすると思っていたので、拍子抜けしてしまう。面と向かっての謝罪を覚悟していたが、そういったことを求められるわけでもなさそうだ。
カウンター席ではパーマっ気のある髪のサラリーマン風の男が一人、静かに麺をすすっている。彼から二席ほど離れた角の席には、あの替え玉太郎が座っていた。目が合ったので、佐橋はすぐに会釈をしたが、彼は何故かこちらを一瞥したきりで、無言のまま頬杖をつき、ただ目線を落としている。メディアで見る印象と違い、笑顔も愛嬌もない。白いTシャツ姿の男なんていくらでもいるし、全体的に薄暗い店だから、人違いかもしれない、と思い直した。
店員に誘導されるままに、テーブル席に腰を下ろした。隣のテーブル席には有名私立中学の制服を着た小柄な女の子と、その母親らしき中年女が向かい合って座って、こちらもやはり中華そばを食べている。母親の方はこちらに背中を向ける形である。高級そうなツイードのジャケットによく手入れされた茶色の髪。傍に置いてある大きなバッグはブランドものだ。
やれやれ、と佐橋は顔に出さないようにして思う。時代は変わった。母娘がこんな遅くに外食、それもラーメン。暮らしにゆとりがあるなら、せめてファミレスを選ぶくらいのわきまえ方をしてもらいたいものだ。
「いらっしゃいませ」と水を運んできたのは、ベリーショートに鼻ピアスを光らせた、もう一人の店員だ。あまり若くないし化粧気もないが、色白で黒子が多いところは好みだ。声も低いし、このままじゃなんだか男みたいだから、髪を長く伸ばし、ちゃんと化粧をしてスカートを穿いたら、どうだろうか。
柄本の厳しい視線に気付いて、佐橋は慌てて店員の身体から目を離し、「中華そば、ひとつ」と小さな声で言った。ベリーショートの店員はデニムの尻を左右に振って去っていった。
ちょっと見ただけで、ペナルティかよ。なんて息苦しい店なんだ、とげんなりした。昔の「のぞみ」は違った。先代の柄本望(のぞみ)はふっくら体型で色白、細かな皺が柔らかな印象だった。酔って入ってきても、あたたかく迎え入れてくれた。まるで母親の待つ実家に帰ってきたようなくつろぎがあった。だいたい、こんなに厳しく見張られている中じゃ、味なんてまともにするわけがない。日々新しいマナーが勝手に更新され、それに乗れないものは容赦なく排斥される。そんな息苦しい昨今の風潮がこの聖域にまでついになだれ込んできたのか。そういったことから解放された豊かな文化を形作ってくれるから、佐橋はラーメンが大好きだったのに。
ベリーショートの店員がカウンター越しに佐橋からの注文を告げるなり、柄本希がいきなり、手を一回、大きく叩いた。
「佐橋ラー油さんから、中華そば、ひとつ、ご注文いただきました」
それをきっかけに店にいた中学生の母親を除く全員が、一斉にこちらを見た。替え玉太郎か、と思っていたあの男、正面から見るとやはり本人だった。
「いらっしゃいませ! ようこそ『中華そば のぞみ』へ!」
と、それぞれが声を張り上げて叫ぶ。なんだこれ、フラッシュモブとかいうやつか、と佐橋は狼狽えた。もしかして自分を歓迎するためのサプライズかと思いきや、その顔は誰一人として笑っていないのだった。
「佐橋ラー油さん。私がこれから中華そばを作り始める前に、周りにいる皆さんをよく見ていただけますか」
柄本希は静かだが圧のある口調で言った。
母親を除く店中の人間が、手を止め、自分に射るような視線を向けている。何が起きているのかよくわからず、佐橋はたじろいだ。
「テメエ、マジでなんも、覚えてないのな? ふっざけんなよ!」
声がした方を見ると、替え玉太郎が厳しい目で中腰になり、こちらを睨みつけている。中学生の娘がふいに椅子からプリーツスカートの襞をさらりとこぼして、スマホを向けた。佐橋はとっさに顔を隠した。
「客の許可のない撮影をしたら、退店させるんじゃなかったのか……?」
そう問い質しても、柄本も店員二人も、肩をかすかに揺らして笑うばかりだ。
「ご心配なく。お店全体を撮影しているだけで、おじさんだけを撮ってるわけじゃないんで。自意識過剰じゃないですか?」
いかにも生意気そうな口調で中学生は言い放つ。
「勝手に撮影される気持ち、これで少しはわかった? あ?」
と、ベリーショートの店員が唇の端を曲げ、低い声で凄んだ。
「本当に何も覚えてないんですね。あなたのせいで、僕は仕事を辞めたのに」
サラリーマン風の背広の男までが青い顔で声を震わせている。とっさに入り口を見たら、先ほどの用心棒みたいな店員が、立ちふさがって腕組みをしていた。冷たい汗が背中を伝う。
「ねえ、おじさん、私たちの顔をさあ、一人一人、よーく見てみなよ?」
と、中学生がこちらまでやってきてしゃがみこむと、下からぐっと佐橋を覗き込んできた。まん丸な目が黒々と濡れていて、暗い灰色で統一された店全体がそこに映りこんでいる。ずっと黙って背を向けていたその母親が、ようやく振り向き、目を見開いて、にっこりした。
「どうしてわからないんですか。私たち全員、すごく『有名』じゃないですか?」
店中の七人がこっちへ焦がすような視線を向けている。その一人一人の顔を見返して、佐橋は「あ」と叫び、手元のコップを倒した。艶消ししたマットな質感の石の床に水滴が落ち、玉の形で跳ね返されていく。
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