新たな出会いが憂鬱…そんな「人間関係」の悩みを軽くする、哲学者の「他者」への考え方

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理解できないからこそ「他者」なのだ

さて、レヴィナスのいう「他者」は、ラカンのとはちがう。いや、誰のともちがう。私はこれを知ったとき、目から鱗(うろこ)が落ちる思いがした。

レヴィナス曰く、他者とは自分とは異なるから他者である。当たり前じゃないかと言うなかれ。人は誰しも自分と似たものを他者に求める。だが、そのような他者は、ほんとうの他者ではなく、自分のなかに取り込んだ他者であり、取り込んだ時点で、その他者は他者でなく自分になっているのである。これでは本当の関係はできない。他者を他者として、自分とは切り離した存在として尊重してこそ、本当の関係が築けるというのである。

目から鱗が落ちたというのも、私はそのように他者を考えたことがなかったからだ。普通、ある人が自分との接点がまったくなかったなら、その人は私にとって存在しないも同然である。ところがレヴィナスは、それでは人との関係は築けないと言っているのだ。

なるほど、「自分と接点がある、気が合うな」と思っていた人が、あるとき別の面を見せる。すると急に白ける。距離を感じる。そして徐々に疎遠になる。そういう経験を何度もすると、これは自分にも問題があると思えてくる。その問題の核心をレヴィナスは衝いているのだ。

レヴィナスの言葉で一番強烈に残っているのは、以下のものだ。

「他者は理解できない。理解するということは、他者を自分のものにしてしまうということで、それができないからこそ他者は他者なのである」

「理解してあげなくちゃ」は傲慢だ

私たちは人さまの前でいい顔をしたがる。少し変な人間が現れると、理解してあげなくちゃいけないと思ったりする。しかし、レヴィナスふうに言うなら、そういう態度は傲慢であり、自己中心なのである。

理解できないとは、自分には及ばないということだ。自分には及ばないと感じることは、自分より上だと感じることである。レヴィナスは、そのように他者を感じることが人間関係で最も重要だというのである。

明治の頃、「異人」という言葉があった。レヴィナスのいう「他者」は「異人」がぴったりである。「異人さんに連れられて行っちゃった」という童謡では「異人」は恐ろしい存在だが、「異人」とは自分あるいは自分たちとは異なった存在であり、それでもやはり人であるという意味なのである。

これを古風にいえば、「まれびと」である。「まれびと」は沖縄や奄美では神様である。私たちの心の奥に「まれびと」への畏怖がある。この畏怖こそがレヴィナスの他者論の核となっているように思える。

 ***

他人なのだから理解できなくて当たり前。レヴィナスのような考えを心に持っておけば、多少なりとも人間づきあいに心の余裕が生まれるだろう。

大嶋仁
1948(昭和23)年、神奈川県鎌倉市生まれ。比較文学者。東京大学大学院博士課程修了。1995年から福岡大学人文学部教授。2016年退職、名誉教授。「からつ塾」運営委員。『科学と詩の架橋』『生きた言語とは何か』『石を巡り、石を考える』など著書多数。

Book Bang編集部
2024年3月29日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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