がん細胞が「ぷちぷち壊れていく」“ノーベル賞級”の治療法が発見された日 『がんの消滅――天才医師が挑む光免疫療法』試し読み

試し読み

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

光免疫療法の「発見」
 そもそも、このIR700の実験を小川が後回しにしていたのにはわけがある。
「小林先生には前々からやってみてと言われていたんですけどね」と小川は言う。
「〈化学屋〉の私としては、IR700の化学式があまり素敵な形じゃないなあと思っていたんです」
 理系の研究者はしばしば自分の専門分野を伝える際にこうした言い回しをする。〈物理屋〉〈化学屋〉〈数学屋〉などだ。それはともかく、小川のような薬学の専門家の目からはIR700という物質はそう見えたらしい。
「化学式を見るとわかるんですが、この試薬はもともとは水に溶けにくいフタロシアニンという色素を水溶性にするために、スルホ基を上下につけているんです」
 スルホ基とはスルホン酸の陰イオン部分で、水によく溶ける。スルホン酸自体は硫酸に匹敵する強い酸なのだが、このスルホ基の性質を利用して、染料や界面活性剤など水に溶けていないと使えない有機化合物を合成する際に使われる。
「実験の素材としては非常に扱いにくそうな化合物だったんですね。なので、正直なところ、ほったらかしにしていたんです。でも、そろそろ留学期間も残りわずかだし、小林先生にもお尻を叩かれていたので、ちょっとやってみようかと」
 フタロシアニンは光や熱に強い性質を持つ色素である。道路標識や東海道・山陽新幹線の車体のあの青色の塗料に使われている。これを水溶性にしたIR700は小林が以前から懇意にしていた小さな化学メーカーが売り込んできた。この物質が気になった小林はメーカーと調整を重ね、実験や治療に使えるよう仕立てていたのだ。
 そのIR700の実験がうまくいかない。
 それどころか、がん細胞は死んでしまっているようだった。死んだがん細胞を特定できたところで画像診断としては意味がない。生きたがん細胞を光らせてこそ、治療に役立つのだから。
 急いで倍率を上げてよくよく観察してみると、がん細胞がどんどん壊れているように見えた。まるで水風船が割れるように、あるいは焼いた餅が膨らむように、がん細胞が次々と膨張して破裂していくのだ。その様子を小川は「ぷちぷち割れる」と表現した。
「そんなふうにがん細胞が割れるのはそれまで見たこともありませんでした。それに、がん細胞を光らせる実験中にがん細胞が死んじゃうっていうのは、少なくとも担当者の私は求めていない結果でしたし、どこで実験の手順を間違えたんだろうって、そればっかり考えていましたね」
 実験のエキスパートである小川が「それまで見たこともなかった」と首をひねるような現象だった。
 光永も困った顔でモニターを見つめるばかりだった。光永にとってもがん細胞が割れて死んでいくのは想定外だった。普通に考えれば、近赤外線を当てるだけでがん細胞が壊れるはずがない。光の出力は正常値。高出力でがん細胞を焼き殺しているわけではないのだ。そもそも実験に使う光として近赤外線が選ばれているのも、「細胞には影響を与えない安全な光」だったからだ。だが、何度繰り返しても結果は同じ。
「やっぱりコイツの形が悪いんじゃないかなあ。このスルホ基が何かを邪魔してるんじゃないかと思うんですけど」
 小川が言ったのはIR700のことだ。
「なんだか光り方も変ですよね……」
 このIR700には光永も朝から撮影のタイミングや露出の調整で苦労させられていた。
 すでに午後一番のラボ・ミーティングの時間が迫っていた。
 小川はミーティング直前、実験の様子を上司である小林に伝えた。
「今朝からIR700を試しているんですけど、うまくいかなくて……」
「うまくいかない?」
「何度やっても死んじゃうんですよ」
「……死ぬって、何が」
「がん細胞が、です」
「がん細胞が死ぬって……小川さん、それってどういうことや」
 小林は時折、生まれ故郷の西宮の話し言葉が出る。
 そそくさとミーティングを終え、小川が顕微鏡室でその現象を小林に見せた時だった。
 小林が大きな声でこう言った。
「これはおもろいなあ!」
 食い入るようにモニターに見入っていた。
「すごい、すごいで! これは治療に使えるんちゃうか!」
 光免疫療法が“発見”された瞬間だった。

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

芹澤健介(せりざわ・けんすけ)
1973(昭和48)年、沖縄県生まれ。横浜国立大学経済学部卒。ライター、編集者、構成作家、映像ディレクター。著書に『コンビニ外国人』など、共著に『本の時間を届けます』など。

小林久隆(こばやし・ひさたか)
1961(昭和36)年生まれ。京都大学大学院医学研究科修了。医学博士。光免疫療法の開発者。米国国立衛生研究所(NIH)主任研究員。

新潮社
2023年10月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「週刊新潮」「新潮」「芸術新潮」「nicola」「ニコ☆プチ」「ENGINE」などの雑誌も手掛けている。

▼新潮社の平成ベストセラー100 https://www.shinchosha.co.jp/heisei100/