“村上春樹映画”だから盛り上がったわけではない 『ドライブ・マイ・カー』が世界的評価を受けるワケ

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 映画ではさらに、みさきも北海道での母の死について自責の念を抱き続けている。家が地滑りに巻き込まれたとき、家の中に残っていた母をすぐに助けようとしなかったのだという。ここまで映画を観てきて、私にはどうしても思い出さざるを得ない作品があった。意外な連想と思われるかもしれないが、スタニスワフ・レムの『ソラリス』である。宇宙を舞台にしたSFなのでこういう人間的なドラマから遠いように思えるが、この小説の主人公は自分のせいで10年前に同棲していた恋人(あるいは妻)を自殺に追いやってしまったという自責の念にずっと苦しんできており、それが宇宙ステーション内で起こる奇怪な出来事の出発点ともなっているのだ。じつは濱口監督は東京芸術大学大学院映像研究科時代に、『ソラリス』を映画化している(2007年)。一般公開されなかったので、ほとんど知られていないが、監督のこだわりはこのあたりから一貫しているのではないかと思った。ちなみに今年はレム生誕百周年に当たる。濱口監督のこの知られざる傑作が上映される機会ができることを期待したい。

 自分は身近な人を本当には理解していなかったのではないか、自分にはなにか「致命的な盲点」のようなものがあったのではないか、そのために大事な何かが決定的に失われてしまったのではないか、そのようなトラウマを抱えてその後の人生をどう生きていったらいいのか。これは村上作品に繰り返し現れる問いである。『ねじまき鳥クロニクル』の岡田トオルも、妻クミコが失踪してからそのことを自分に問いかけ続ける。その問いに答えるために、濱口監督が映画で導入するのは、チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』である。村上原作でも家福がワーニャ役を演じていて、車の中でもカセットテープを聞きながら自分の台詞を復唱するという設定になっているが、濱口映画ではチェーホフはもっと前面に打ち出され、映画の後半はむしろチェーホフの主題による映画化の様相を呈するほどになる。チェーホフは村上春樹にとっても特に大事な作家の一人で、特に『1Q84』ではチェーホフの『サハリン島』に光が当てられるとともに、このロシア作家の存在感が大きくなるのだが、濱口監督にはチェーホフに対するこだわりとはまた別の、「演劇的」なものがあるように思う。

 強烈に記憶に残る箇所なので覚えている方も多いと思うが、濱口監督の前作『寝ても覚めても』でも、友達が集まった席で、女優志望の女性が自分の台詞を朗唱している場面の記録映像を皆に見せると、同席していた一人の男が(彼に演劇経験があるとは誰も知らないので、これは不意打ちである)その朗読が自己満足な中途半端なものだと強く批判して、自ら台詞の暗唱をしてみせるという場面がある。じつはここで朗読されるのが、チェーホフの『三人姉妹』からの台詞だった。この場面は柴崎友香の原作にはなく、私の印象では、映画全体のプロットにとって必然性があるのかやや疑問なのだが(むしろ想定外の逸脱であることによって鮮烈な印象を残す)、ここで朗読されるチェーホフの台詞の強度には改めて驚かされた。

 映画版『ドライブ・マイ・カー』の場合、後半で、家福は広島国際演劇祭に赴き、『ワーニャ伯父さん』の演出を担当するので、そこから映画の大部分は、いわば「メイキング・オブ・『ワーニャ伯父さん』」になるといってもよい。この戯曲の様々な場面、多くの台詞がつぎつぎに映画に盛り込まれ、家福は不出来な演技を厳しく批判しながらも、俳優と俳優の間に「何かが起こる」至福の瞬間にまで導いていく。ここで特筆しなければならないのは、これが普通の日本語のみによる上演ではなく、国籍も言語も様々な俳優たちが共同で作る多言語的演劇になっているということだ。日本人の俳優に交じって、台湾人、韓国人、フィリピン人が加わり、稽古場では英語、北京語、韓国語、タガログ語など多くの言語が飛び交うのだ。そのうえソーニャ役の韓国人女性は唖者であるため、音声言語ではなく、韓国式手話による参加なのである。

沼野充義(ぬまの・みつよし)
1954年、東京都生まれ。東京大学卒、ハーバード大学スラヴ語学文学科に学ぶ。現在、名古屋外国語大副学長。2002年、『徹夜の塊 亡命文学論』(作品社)でサントリー学芸賞、2004年、『ユートピア文学論』(作品社)で読売文学賞評論・伝記賞を受賞。著書に『屋根の上のバイリンガル』(白水社)、『ユートピアへの手紙』(河出書房新社)、『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』(講談社)、訳書に『賜物』(河出書房新社)、『ナボコフ全短篇』(共訳、作品社)、スタニスワフ・レム『ソラリス』(国書刊行会)、シンボルスカ『終わりと始まり』(未知谷)など。

新潮社 新潮
2021年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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