“村上春樹映画”だから盛り上がったわけではない 『ドライブ・マイ・カー』が世界的評価を受けるワケ

ニュース

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

 濱口監督はまず、『女のいない男たち』に収録された他の短篇からモチーフを取って、映画に組み込み肉付けをしている。それが不自然なつぎはぎにならず、ゆったりとした大きな一枚の絵になっているのは、もとの短篇集が一定のモチーフによってある程度統一されているおかげもあるが、やはり自らも(大江崇允と共同で)脚本を書いた濱口自身の「長篇作家」としての構想力に負うところが大きいだろう。映画では「シェエラザード」という短篇から、セックスのたびに千夜一夜物語のような不思議な話を次々に紡ぎだす女性の役割が家福の妻に移され、村上の「ドライブ・マイ・カー」では(短篇なので当然だが)ほとんど生い立ちも好みも語られない家福の妻(映画では「音(おと)」という名前が与えられていて、「宗教的」な響きさえ感じられる)の像が立体的になっていく。音が語るのは、前世がやつめうなぎだったとか、中学生のとき片思いの相手の男子の留守宅に忍び込んだとか(後者はもちろん実際の経験だという保証はない)、かなり奇想天外な話なので、音の伝記的プロフィールを書き足していることには必ずしもならないが、セックスの後に湧き出す物語をいわば夫婦2人で協力して作り上げていく過程そのものを組み込むことによって、映画は人間関係を――夫の側から浮気した妻のことを一方的に考えて悩むという次元を超えて――より立体的にしている。

 映画ではもう一篇、「木野」という村上作品のモチーフも利用している。この主人公は予定よりも一日早く出張から帰宅すると、自宅で妻が会社の同僚とセックスをしているところを目撃し、そのまま家を出て離婚してしまう。「不倫もの」でよくある、陳腐といってもいいシチュエーションだが、濱口監督はこの仕掛けを映画の冒頭に持ってきて、映像的に大胆かつ美しい光景をまず焼き付ける。ただし「木野」の場合、重要なのは陳腐な浮気露見の場面ではなく、それを主人公がどう受け止めたかである。主人公は後になってから、「おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかった」「痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避」したのだと反省する。映画版『ドライブ・マイ・カー』でもほぼ同じ問題が提起されている。家福は木野と同様、留守中に愛人と激しくセックスをしている妻の美しい姿を目撃するのだが、気づかれないようにそっと家を出て、自分がそれを目撃したことを妻には知らせず、そのまま表面的には平穏な夫婦生活を続ける。しかし、家福は妻を問い詰めることも、怒りをぶつけることもせず、彼女の「秘密」を本当に理解しようとしなかった、という点では木野と同じである。自分は正しく傷つくべきだった、とは映画でも家福が言っている。

(C)2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

 ここで濱口監督が付け加えた興味深いディテールに注目したい。映画のほうでは、家福の妻はある朝、家を出ようとする夫に、今晩帰ったらちょっと話ができるか、とことさら尋ねるのだが、家福は(おそらく故意に)その問いかけに込められた意味を理解しないふりをし、その日深夜に帰宅すると妻はクモ膜下出血で倒れていた、ということになる。妻はその前夜もセックスの際にかなり意味深長な話をするのだが、家福は翌朝、それを覚えているかと妻に聞かれて、よく覚えていない、とおざなりな返事しかしない。つまり、家福は妻の死に直接関与したわけではないとはいえ、何かを理解してもらいたがっている妻の呼びかけを無視し、彼女と話し合う機会を作らないまま死に追いやってしまったという後悔に後々まで苛まれることになる。

沼野充義(ぬまの・みつよし)
1954年、東京都生まれ。東京大学卒、ハーバード大学スラヴ語学文学科に学ぶ。現在、名古屋外国語大副学長。2002年、『徹夜の塊 亡命文学論』(作品社)でサントリー学芸賞、2004年、『ユートピア文学論』(作品社)で読売文学賞評論・伝記賞を受賞。著書に『屋根の上のバイリンガル』(白水社)、『ユートピアへの手紙』(河出書房新社)、『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』(講談社)、訳書に『賜物』(河出書房新社)、『ナボコフ全短篇』(共訳、作品社)、スタニスワフ・レム『ソラリス』(国書刊行会)、シンボルスカ『終わりと始まり』(未知谷)など。

新潮社 新潮
2021年10月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

株式会社新潮社「新潮」のご案内

デビュー間もない20代の新人からノーベル賞受賞作家までの最新作がひとつの誌面にひしめきあうのが「新潮」の誌面です。また、文芸の同時代の友人である音楽、映画、ダンス、建築、写真、絵画などの領域からも、トップクラスの書き手、アーティストが刺激的な原稿を毎号寄せています。文芸を中心にしっかりと据えながら、日本語で表現されたあらゆる言葉=思考の力を誌面に結集させたい――それが「新潮」という雑誌の願いです。